Sunday, June 14, 2009

twitter

twitterに入った。
初めは、なんだこれは、一体それがどうしたというんだ、という印象だったが、合点のいかないまま今やっていることを書き込み、いつの間にかフォローしてくる人をフォローしてその人の書き込みを読んだりしているうちに、これはもしかするとかなり面白いかもしれないという気がしてきた。
同時性がポイントなのだろう。ネットで知り合ったばかりの人なのに、今彼/彼女が何をしているか、考えているかが即時分かる。これまでのSNSでもそのように使えたのだろうが、メッセージが短い分、即座にパッと伝わる感じがある。
また、自分と同じ関心を持っている人を見つける時にも、これまでのSNSよりスピード感がある。
今、色々試しているところ。

Wednesday, June 10, 2009

メモ帳

昨日の続き。
従来の、google notebookに書いてきたものは、名前を改め「哲学?メモ帳」とした。リンクは右欄からどうぞ。

Tuesday, June 09, 2009

webノート

「哲学ノート」は断片の物置のようなものであるが、少しは整理された形で全体をまとめてみたいという気持ちもある。最終的には、本のように一次元の軸上に並べるのがいいのだろうが、まだそこまでは断片同士の関係が整理できていない。そこでとりあえず、webのリンク機能を使って、ツリー上に編集する試みを始めた。(こちらを参照)
google sitesを利用している。

ただ、これまでの断片をそのままコピーするのでは、さほどの整理にはならないから、メモを参照しつつ一部引用したり、書き換えたり、時には新しく書いたりするのがいいのだと思う。どこまでやれるかは分からないが、試してみる。

「哲学ノート2」メモ

指定(指示)機能について
・ニュータウンに住む5歳のA君が、幼稚園の友達B君に「今度の日曜日にぼくの家においでよ」と誘ったとする。B君に「うん、行くよ。Aちゃんのうちはどこなの」と聞かれ、「富士見ヶ丘ニュータウンのね、入り口の脇に車がとめてあって、それから小さなポストがあって、ベランダに花がある家だよ。」と答えたとする。B君は、「分かった。じゃあ日曜日に行くね」と約束するだろう。
・日曜日に親の運転する車に乗せられたB君は富士見ヶ丘ニュータウンまでは難なく辿り着いたが、A君の説明のような家がたくさんあるのを見て、困惑する。結局B君の親がA君の親に電話をすることになるだろう。
・A君の親の説明は色々考えられる。「ニュータウンの入り口から入って3番目の交差点を右に曲がり、2つ目のブロックの中で、一つだけ屋根が赤い家があります。」とか、「このニュータウンはブロックごとに名前がついていて、ここは、サクラです。ブロック毎に住宅に番号が振られているので、サクラの17を探して下さい。」とか。

・家を特定する表現は実は難しい。多くの場合、あるエリアには似たような概観の家が並ぶからだ。ニュータウンにはニュータウン風の、農村には農村風の家が。
・ニュータウンに一戸だけ茅葺きの家があったら、特定するのは簡単だ。
・結局、指示にとって必要なのは、他の個体との差異である。
・何番目の角を曲がって幾つ目というような表現は、全ての個体に空間上の特定の座標を与えることにより、人工的に差異を設けることである。ブロックの名前と住宅の番号をつけることも、人工的に差異を設けることである。
・(どちらが優れているかは、ケースバイケースというしかないが、京都もニューヨークも座標と固有名を併用していることを見ると、座標的指示だけでは何か人間には不便があるのかもしれない。)

・あるブロックに固有の名前をつけることは言語の方法そのものであるし、座標や固有番号による特定も、記号を用いるという点で、言語の方法を拡大適用していると言える。
・われわれ人間は、対象を特定するためにこのような言語ないし拡大言語を用いることに慣れきっている。それ以外に対象を特定する方法などあるだろうかとさえ思う。しかし、対象を特定することは、言語的方法によらずとも可能である。
・例えば、犬も猫も、何キロも離れたところまで遊びに行ってしまっても、ちゃんと飼い主の家に帰れる。
・これは、景色やルートについての何らかの記憶なのだろうか。
・犬の場合は、臭いによって対象に辿り着く可能性も高いだろう。B君の飼い犬にA君の臭いを覚えさせれば、ニュータウンに降りたところから臭いを辿ってA君宅に行き着くかもしれない。

・ヒトは、嗅覚という対象を把握する直接感覚が衰えてしまったがために、記号を介して対象に辿り着くしかなくなったとも言えるのではないか。

Monday, June 08, 2009

「哲学ノート2」メモ

・音の世界もまた、圧倒的に豊かである。
・散歩をしていて聞こえる様々な音。見えないけれど前の方から電車が近づいてくる。まだ、かなり離れている。これも姿は見えないが、真上よりやや左後方、それほど高いところではないところで鳥が鳴いている。一点に止まっているわけではないが、大きく旋回しているわけでもない。何か危機を察知しているといった声ではなく、平時の声。足下では水の流れる音。人工の小さな水路が見えているが、そこの音だ。仮にその水路が見えなくても、これが大きな川でないこと、急流でもないことなどは明らかな音。
・音は、それが何の音であるか、どこから発せられているのかを我々に示している。
・さらに、電車の音は、そちらに近づいては行けないことを我々に示す。アフォーダンス理論では、近づいては危険であることをアフォードしている、ということになるだろう。
・平和な小鳥の囀りは、我々にそのまま穏やかな気持ちでいていいことをアフォードするが、これが数羽のカラスのけたたましい鳴き声であったら、もしかしたら手にもった食べ物が狙われるかもしれないから警戒すべき状況であることをアフォードするだろう。

・言葉の発生において、この、音のアフォーダンスが大きな意味を持っていると考えられる。

・音がアフォーダンスを持つのは、我々の生活場面においてその音が独立に存在するのでなく、ある生活場面を構成する関連し合った要素の一つとして存在するからである。
・(「生活場面を構成する関連し合った要素」。もっと磨き上げた表現はあるだろうが、概念自体は、本考察の鍵になるものと言える。)

・音楽が人に感動をもたらすことと、音のアフォーダンスは、無関係ではあるまい。明示的にある場面を音で表現する音楽は言うまでもなく、抽象度の高い音楽においても、ある音の配列、高さ、強弱の変化等は、我々の先祖を警戒させ、安心させ、喜ばせた、何らかの生活場面における音との類似性を持っているのではないか。

Friday, June 05, 2009

「哲学ノート2」メモ

言語が世界を把握する上で重要な機能は、言語が対象を指示・指定することである。
しかし、この対象指示(指定)機能には大きな限界もある。例えば我々の身体部分を指す言葉を考えても、肩とはどこまでを指すのか、頬と顎の境はどこなのかなどということは定まっていない。同じように、今日は暑い、暖かいというとき、その境がどこにあるのかは決まっていない。

この限界は、言語の発生過程を考えれば、当然ともいえる。言語は、言語だけの世界で意味を持つものではない。我々の先祖が生活の場面で色々と音声を発する中で、ある場面で特有の音声を発すればそれまでより便利なことがあることに気づき、その特有の音声を発する習慣がグループの中で定着した、それが言語の起源であろう。言語は生きていく上でいくばくかの便益をもたらすものとして徐々に発見され育てられたものであり、初めから対象を正確に描写することなどを目的として生み出されたものではない。

生きていく上では、言語の対象指示(指定)機能に限界があることは、さほどの問題とはならない。
我々の祖先が家族で獲物の肉を食べているとする。父親が子供に「お前には肩のところをやる」と言ったとして、「肩」というのがどこまでを指すのか、境界線を引く必要はない。ただし、子供が腰の肉をとろうとしたら、「そこは肩じゃないよ、腰だ」と教えてやる必要があるだろう。

そもそも、言葉が、このような「部分」を指すようになったのは、発生的には後なのであろう。それに先だって、個体を指す言葉があっただろう。例えば、「ライオン!」的な発声である。さらにそれに先だって、「ウオー」だか「ギャー」だかは分からないが、警告の発声があっただろう。その声を聞いてグループの成員が逃げ出せば、この発声は役目を果たしたことになる。しかし、ライオンとウサギを発声上区別できた方が、生きていく上では便利である。「ライオン!」なら逃げるが「ウサギ!」なら追いかけるわけである。

Wednesday, June 03, 2009

「哲学ノート2」メモ

(これまでの「哲学ノート2」はここ。)

杖を私の身体の延長と捉えられるのは、私が杖を操作できるからである。私は私の身体を、私に感覚をもたらすものというだけではなく、私が私の意志で動かしているものとして、捉えている。
従って、私と薬缶の間にある空気は、仮に熱の感覚を私にもたらす媒体であってその点で杖と同様だと言えたとしても、私が私の意志で動かせない以上、私の身体として捉えられることはないのである。

竹馬の名人は、竹馬を自在に操りかつ先端から地面の感触を得ている。従って、彼にとって竹馬は自分の身体の一部に近いものと捉えられているだろう。自分の身体とどこが違うかといえば、分離されることがある点である。(もし、分離される時に強烈な痛みが伴えば、自分の足同然ということになる。)

Tuesday, June 02, 2009

植物工場

この一月の間に、植物工場を2か所見た。どちらも浅いプールに発砲スチロール(?)の板を浮かべ、その板にあけた穴に野菜を挿して育てるやり方。プールには、必要な栄養が含まれた水が入れられていて、濃度管理を自動的に行う。
違いの一つは、スペースの使い方。一方は言わば平屋で、大きなプールが一段あるだけだが、他方は言わばビルで、プールが棚状に7から9段設置されている。
もう一つの大きな違いは、一方は自然光併用、他方は人工光のみであるということ。人工光の方はほぼ完全密閉で、自然の光も空気も入らない。(酸素濃度が高くなりすぎるので二酸化炭素を注入するらしい。)
いずれも見てかなり面白いものだし、試食させてもらったレタスなどもとてもおいしい。露地ものと遜色ないどころか、こちらの方が上かとさえ思えるほど。
数年前に比べればコストもかなり下がったようで、外食産業や、百貨店、一部スーパーなど取引先も確保できてきているようだ。

畑での野菜づくりは非常に労力を要するし、天候次第で出来具合も相当に違ってしまう。植物工場には、そういう問題がない。また、無農薬であるということも大きな強みだろう。
結構なことばかりなのだが、どうもまだ、違和感が拭いきれない。
野菜が畑の土で作られなくていいのか、という素朴な思い。
大規模な密閉式の鶏舎が普通になり、一度も土の上を歩いていないニワトリを食べている時代に、そんな感傷めいた反応は似合わないのだとは分かっているが。

(612字)

Sunday, May 31, 2009

小さな謎

(とにかく字数を書くことにしたので、他愛ないことでも書いてしまう。読者(いるとすればだが)において、読むべきものと読み飛ばすものは適宜決めて頂きたい。)

歩いていて、ある衆議院議員のポスターを何の気なしに見た。国政報告会を平成21年9月12日に開くと書いてある。確か任期は9月10日まで。9月12日の彼の身分ほど、今現在分からないものはない筈。その時既に総選挙が行われ当選していれば衆議院議員のままだが、落選していればただの人。解散はされているが総選挙はまだ行われていなければ前議員で候補者。
一体彼は、自分の身分がどうなっているという前提でこの報告会をセットしたのだろうか。どうなっていようとこの時期にやって損はないという計算なのだろうか。さすがに落選していたら、あまり意味のない報告会のように思えるのだが・・・

(355字)

目標設定

健康のためには、歩くことが効果的であることは分かっている。それではと、体重を何キロにすることとか、体脂肪率を何パーセントにすることとかを目標に設定し、毎日できるだけ歩こうと決めても、あまり続かない。他の人は知らないが、少なくとも自分は、そういう意識を持っただけでは、歩行量が目に見えて増えるということはなかった。

ところが、一種の万歩計を持った途端に、歩行量が増えたのである、飛躍的に。
この万歩計は、一日の目標歩数を設定し、その目標達成度に応じて、画面上の漫画的なキャラクターが成長していく。他愛ないものなのだが、これが効くのだ。
今設定している目標は、一日7000歩である。平日なら少し努力する程度で達成できるが、休日に家でごろごろしていると全然届かないレベルである。達成しないと、成長して来たキャラクターが逆戻りしてしまう。それがいやで、外に出て歩こうという気持ちになるのである。以前は車で行っていた郵便局に歩いていくようになった(実は歩いても5分なのだから、なんということはないのだが)し、その郵便局からの帰り道は、家への最短コースをとらず、わざわざ遠回りをするようになった。ちょっとした買い物などが必要になると、それは歩数が稼げてありがたい、ぼくが行くよ、とさえ言うようになったのである。

キャラクターの成長は、毎日目に見える達成である。しかも、歩くという行為との関係は直接的である。体重や体脂肪率の変化は、これに比べれば毎日はっきりとは目に見えないし、歩行との関係も直接的ではない。一日たくさん歩いただけでは体重は減らないし、少し食べ過ぎれば逆に増えてしまう。
キャラクターの成長そのものは、自分の健康という目的とは本来何の関係もない。しかし、キャラクターを成長させたくて毎日歩けば、結果的には健康にもつながっていく。そういう意味で、キャラクターを成長させるという目標は、媒介目標とでも言うべきものである。あるいは、本来の目標達成時に与えられる褒賞(例えば健康)を目指す過程での媒介褒賞と言うべきか。歩数を媒介目標、キャラクターを媒介褒賞、健康を本来の目的と捉えるのが、正確かもしれない。
媒介目標である歩数の達成度や達成の継続性、累積をも見えるようにし、媒介褒賞として機能するようにしたのがこのキャラクターということになる。

小学1年生に、ノート1ページ全部のマスにひらがなを書いてきなさいという宿題を与え、書いてくればハナマルを書いたり「よくできました」スタンプを押す。スタンプシートを別に作り、シート1枚にスタンプがたまったら、「がんばりました」賞状を与える。
これも原理はキャラクターと同じである。(こちらが本家で、キャラクターはここから発想を得たのかもしれないが)子供は、その賞状をもらうことを目当てに、がんばる。
「がんばりました」賞状自体は、学力の向上を直接示すものではない。しかし、「がんばりました」賞状がたまってくる子の学力は、やはり向上しているのである。
先ほどの概念規定を用いれば、文字数が媒介目標、賞状が媒介褒賞、学力の向上が本来の目的ということになる。

大人になると、賞状がなかなか効かなくなってくる。万歩計のキャラクターの成長にも、慣れてくるとさほど一喜一憂しなくなる。事情あって達成できないこともあり、それでキャラクターが逆戻りしたからといって、大人は悲しんでいるわけにはいかない。
大人は、賞状やキャラクターのような媒介目標そのものが重要なわけではないことを知っている。
一方で、毎日ノートのマスに字を書くこと、毎日一定の歩数以上歩くことの重要性も知っている。その積み重ねが長い間に大きな違いを生むことを、大人は子供よりもよく分かっている。
その結果、大人は、賞状のような媒介褒賞はなくても、媒介目標の達成を確認できれば、自分が本来の目的に近づいているという充足感を覚えることがある。
例えば、ノートに、今日の歩数と、達成度合に応じたマーク(◎、○、×など)を記録するだけでも、○の連続を見て喜べるのである。


さて、目的成就のノウハウを書こうと思ったのではないのだった。
たくさん歩いて健康になろうというような目的意識を離れても、人は、たくさん歩くこと自体を目標にし、その達成を喜べる。時間の効率だけを考えたらあり得ないような遠回りの道をわざわざ歩いて、今日はたくさん歩けたと喜べる。
このことの意味こそ、実は重要なのではないか。
結果として何かいいことがあるのかもしれないが、それはおまけでいい。毎日毎日、数を重ね、多くの時間をかけることに喜びが見出せるような何かを持つこと。そのことこそ、人生において大きな意味を持つのではないか。

できるだけ多くの(以下同じ)花を見ること。都市を訪ねること。ラーメンを食べること。人と話すこと。俳句を作ること。等々。そういうことが、生きる上で大きな意味を持ち得るのである。それが何であるかは、それぞれの人によるが。
私は、文章を書くことを選ぼう。1日400字以上。達成できない日があっても、1年10万字以上。

・・・・・

できるだけ多くの日数生きること、はどうなのか。どうやら我々は、進化の過程のどこかで、それだけでは満足できなくなってしまったのかもしれない。喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのかはともかく。

(2173字)

Monday, October 13, 2008

Panoramio

Google mapに自分の撮った写真を貼り付けるということ、なんということもないと言えばなんということもないのだが、結構はまる。
有名な所には見事な写真がいろいろあって、自分が追加する価値がそんなにあるとは思わないが、でもそういうところだったら、見てもらえる確率は高いかもしれないという期待も若干ある。
一方で、わが近所のちょっとした事物など、世界中で知ってる人はほとんどいないわけだから、どう、なかなか面白いでしょうと言いたい気分になる。ただしこちらは、見てもらえる確率は極小だろう。
掛け算してしまうと、期待値はいずれも大したことはないのだが、こういう時は掛け算せずに都合のいい方だけで動く心理が働くのかもしれない。

分析の当否はともかく、色々面白いものを載せたくなるのは確かだ。昨日近くで撮った数枚だけを貼り付けるつもりが、2年前まで遡って20枚程もアップしていた。(Panoramio
(審査に時間がかかるようで、地図にはまだ出ていない)

Tuesday, September 30, 2008

中山大臣発言に対する伊東乾氏の見方

中山前国交相の発言については、なんて馬鹿なことを言ったんだろう、もしかすると痴呆化が始まっているんじゃないだろうかとさえ思った。
ところが、伊東乾氏は全然違う見方をしていた。(NBonline
初めは失言だったかもしれないが、途中から確信犯的に言い始めたのはなぜか。狙いがあるからだ、というのだ。自分の選挙のことを考えているだろうし、もしかすると自民党にとっての利益もねらったのかもしれないと。中山氏は党のことを考えたわけではないとしても、自民党にとって中山発言は必ずしもマイナスばかりではないと伊東氏は見る。

他人の意見の紹介だけというのも、blogとしては中身のないこと甚だしいが、非常に面白かったので。
それにしても、この伊東氏のプロフィールには驚く。なんと多彩な活動分野であることか。

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そうか、コメントなしで紹介するだけなら、Bloggerのリンク機能を使えばいいんだ。早速、追加。

Sunday, September 21, 2008

野依博士の言葉

野依理科学研究所理事長が今月、日経に履歴書を書いている。実に簡潔明瞭。博士の論文もこのようなのだろうと想像する。

9月18日掲載分」から。
「科学研究では、本質的な問題に対する明快な解答が高く評価される。しかし、良い問題の発見こそが創造の根源である。個人の資質に依存するが、人の思考力には限界がある。異質の考え方と技術の集積、掛け算こそが新たな力を生む。さらに綿密な計画遂行の間にも、予期せぬことが起きる確実性に妙味がある。」

「本質的な問題」、「良い問題」を徹底的に重視する姿勢は、履歴書全体の基調になっている。裏返せば、多くの研究、研究者に対する厳しい批判でもあろう。
また、異質のものの掛け算に対する期待は、博士が現在力を入れている学際間の連携や産学連携の基本精神だろう。

9月20日掲載分から。
「科学の進歩の鍵は独創的研究であるが、その可能性の評価は難しい。見かけの公平性の担保のために無責任な多数決民主主義を適用することは賢明でない。欧米で流行し、皆が良いと判断する課題は既に後追いだ。」

自らは学界でほとんど相手にされなかったテーマの研究を進め画期的な成果をあげた博士だからこその言葉。見かけの公平性うんぬんのところは、実際の経験を伴う批判であることが、今日の分を読むと分かる。博士が進めさせようとした最近の研究に対し、役所は実に冷たかったらしい。

科学研究に莫大な費用がかかるようになるとともに、研究戦略が一国の盛衰を左右しかねないのが現代。研究テーマの選定に行政が関与せざるを得ないが、そこは見かけの公平性を第一原理とする所だから、この問題の解決は本質的困難を抱えている。
結局、よくは分からないがこの先生の言うことに賭けよう、というやり方が一番なのだろうと思う。多くの専門家に対しフィードバック方式のアンケートを繰り返す方式もよく試みられたが、多数意見のプレッシャーを感じて少数の突出した意見の角が丸まっていきがちだ。
「この先生」の選択が重要だが、これまた難しい。年齢にかかわらず先見の明を持ち続ける大家もいるだろうが、権威はあるものの実は先端的な動きの価値が分からなくなっている人も少なくないだろう。

例えば、ニュートリノ研究と、脳科学研究のどちらも重点的に進めたいが、予算は数百億円で分配してはどちらも成果が出ない、一方に重点配分するしかない、という状況があったとする。ニュートリノ陣営の総帥は当然ノーベル賞の小柴博士、脳科学陣営のキャプテンは理研の甘利博士だとする。どちらが50年後の日本のためになるかなんて、文部科学省の役人にはとても判断できない。こういう状況下で、小柴博士に賭けるか、甘利博士に賭けるか。
本来こういう場合は、両分野のトップだけではなく、メタ分野(科学哲学とか、技術史とか、産業技術論とか)の大家が出てこなくてはならないのだが、どうもメタ分野の大家より、個別分野の大家の方が今の日本では権威者と評価されているように思える。

「この先生」選択の優れた方法を開発することと、メタ分野の研究をもっと進展させ大権威を生み出すことが、今の社会には必要だ。

Saturday, August 23, 2008

DIALOG IN THE DARK

真っ暗な部屋の中を、視覚障害者のサポートを受けながら、グループで歩くワークショップに参加した。
http://www.dialogue-in-the-dark.com/
ドイツで始められたもの。日本でも何か所かで行われるようだが、私は、学士会館で体験した。

初めに盲人が実際に使っている杖を渡され、持ち方、動かし方を習う。これだけが頼りなのかという緊張感を少し覚える。
暗幕をあけ、部屋に入ると本当の闇。全く何も見えない。サポーターの明るい声がはっきり聞こえなかったら、すくんでしまってほとんど動けないだろう。こちらへという声に促され、ほんの少しずつ足を前に出す。杖をやたらに動かすと、近くにいる参加者の杖にぶつかる。ごめんなさいというお互いの声が、少し緊張を和らげる。
何に触ったとか、足元がどうなっているとかを声に出して言いなさい、しゃがみこんで床を触ってもいいけれど、その時は誰それしゃがみますと言いなさい、そうしないと近くの人が知らずにぶつかって転ぶから、等と開始前に教えられたことを、みんな忠実に実行。みんなの声が近くに聞こえることが、何よりの安心であることをしみじみと感じる。

数分も立つと、結構慣れてくる。音の来る方向、距離が実によく分かることに驚いた。近くであれば声だけを頼りにサポーターの所まで行けるし、他の参加者がどの辺にいるかも分かる。鳥の声は、右後ろこの方向のあの辺で高さはあそこあたりとか。
床に敷き詰められている葉や藁などの匂いも強く感じる。

慣れるに従って課題も少しずつ難しくなり、丸木橋を渡ったり、つり橋を渡ったり、ブランコに乗ったり。橋はどう考えても1.5m位しかないのだが、靴に触れる面が湾曲しているだけで不安は増すし、わずかであろうつり橋の揺れも怖いほど。
最後は、真っ暗なカフェで椅子を探して腰掛け、グラスをもらって飲み物を注いでもらい、それを飲みながら参加者同士感想を述べ合った。

その時自分や他の参加者が述べたのは、視覚が働かないことの怖さ、聴覚や嗅覚がこんなに働くということに対する驚き、他者との協力の貴重さの発見等であった。サポーターからは、初めはみんなの歩幅はとても狭かったがだんだん広くなったという指摘を受けた。見えなくても彼には分かるらしい。また、彼に尋ねたところ、部屋の中の様子は既に完全に頭に入っているので、声をかけられればすぐに駆けつけられるとのこと。(ちなみに彼は杖を持たずに歩いていた。)視覚障害者の空間把握というの一体どうなっているのだろうか。

終わってから考えたこと。われわれは視覚があっても光がなければ何も見ることができない。生まれた時から光のない世界で生きてきたなら、視覚を持っていることにすら気づかないだろう。
同様に、実はわれわれは別の感覚を持っているにもかかわらず、それを働かせる条件となる、視覚における光のような何かがわれわれの周りに欠けているために、その感覚に気づいたことがない、という可能性もあるのではないだろうか。
オカルト的なことを述べるつもりはないが、理論的にはあり得ることだろう。

Wednesday, July 02, 2008

悲観論

何年か前には、物価が下落を続ける中で、インフレ待望論がかなりあったと思う。
いざ、石油をはじめとして諸物価が急激に上がり始めると、景気の先行きについては悲観論一色だ。ごく一部の地域を除いて地価は下落傾向が続いているから、インフレ待望論が想定していた、地価の上昇→不良資産の処分促進→景気上昇というわけにはいかず、悲観論になるのもやむを得ない状況なのかもしれないが。

それにしても、Xになっても反Xになっても悲観論、ということが世の中にはよく見られるように思う。
これはもしかすると、人間の宿命なのかもしれない。
intention、意図、目的意識を持っているということが、ヒトがヒトたる所以。「人生の目的とは何だ?」と悩んだり、「目的がなくなって生きていくのがつまらなくなった」などということを言うのは人間だけだ。
常に楽観論に立っていたのでは、「この問題を解決するために、こうしなければならない」という思考は出てこない。悲観論は、目的意識を持とうとする人間の本性の産物なのではないか。

Thursday, April 10, 2008

人形

幼稚園児や小学校低学年の児童は人形が大好きだという。交通ルールなども、「ブタさん」や「クマさん」の人形を使って教えると、目を輝かせて聴いているとか。
この、小さい子は人形が好きということは、脳の働きの発達と関係があるのではないだろうか。つまり、自分以外の存在を「心を持ったもの」として捉えることは、人間にとって不可欠の能力であり、幼児は、自分を統合された存在であると捉え、自分の行動を意識的に統合することを身につけると、次の段階では、自分と同様に自らの意思で動く統合された存在を身の回りに発見していく。まずは母親なのだろうが、徐々にそれ以外のものにも「心」があることに気づき、身の回りのものを「心」を持ったものと持たないものに区別することを覚えていく。
その段階で、「心」を持った存在に出会うことは、幼児にとって、心躍ることなのだろう。自分の仲間に会うわけなのだから。

世界中に、人形を使った芸能があり、その中には文楽のように高度に発達したものがある。このことも、人間が、身の回りのもののなかに「心」を見出すことを楽しむ存在であることと関係があるように思う。

Sunday, March 30, 2008

文楽

先月、初めて文楽を見た。綱大夫、勘緑、「冥途の飛脚」。今までにない類の感銘を受け、ブログに書こうと思ったのだが、どう書いていいのか分からないまま時間がたってしまった。

昨日、家人が見ているテレビを覗いたら、「文楽入門」。住大夫、錦糸、玉男、文雀、簑助ほかという豪華メンバーによる「伊賀越道中双六・沼津の段」のところどころを見せながら、住大夫が話をしている。
しまった、こんないい番組があったのかと思いつつ見ていて、一つ気づいた。
人形が小さく見える。国立劇場の公演を一緒に見た家人も同意見。

テレビであれ舞台であれ、顔が見えている主遣いと人形は一緒に目に入っているわけだが、テレビの場合、その大きさの差をどうやら客観的にそのまま見ている。
一方、舞台では、主遣いは見えてはいるのだが意識の中でずっと背景に引いており、人形が意識の大半を占めている。
そうとしか思えない、人形の大きさ感の違いだった。
舞台では、人形遣い、大夫、三味線の技の総体に、意識がまるごと引き込まれていたということなのだろう。

「冥途の飛脚」の道行相合かごの場面、立ち上がった伊兵衛はぼくには等身大の存在だった。人形は人形として見えているのだが、しかし、それは、心を持った人形なのだった。

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1711.html

Sunday, March 16, 2008

問題

梅田望夫氏が、フォーサイト3月号で紹介しているまつもとゆきひろ氏の言葉に、そうか、そういうことだったんだと思った。
「ほとんどの人は、適切な大きさと複雑さを持ったいい問題を探しているんですよ」
梅田氏が、リナックスのようなオープンソースプロジェクトに集まる人々の動機を問うたのに対するまつもと氏の答である。
まつもと氏はさらに言っている。
「新聞にクロスワードパズルが載っているでしょう。あれですよ。見つけると解きたくなる人がいる」

ぼく自身がそうだ。何かを書きたいという気持ちがあっても、何を書くか、テーマが見つからない。でも、手頃なテーマを与えられると書ける。問題が与えられると解決しようという意欲が沸き、解決すると達成したという喜びがある。

ヒトが他の生物との生存競争に勝てるようになったのは、反射的行動だけではなく、意図的行動ができるようになったからだと本で読んだ。サルも意図的行動をするが、ヒトはそのやり方に磨きをかけた。
適当な意図を持つと意欲が沸くように、われわれの遺伝子はプログラムされるに至ったのだろう。

「適切な大きさと複雑さを持ったいい問題」を提示すること、これは誰にでも与えられた能力ではないらしい。
だから、独創的な研究者や、ベンチャー企業を大企業にまで成長させる経営者は、そうはいないのだろう。

Tuesday, February 12, 2008

サラ・ジー展

銀座のメゾンエルメスでサラ・ジー展を見た。
http://www.tokyoartbeat.com/event/2008/5A4D

2フロアの3分の2は吹き抜け、途中にエレベーター、半透明の正方形のガラスが通り側一面に並び、それに沿って5本(見えるのは4本)の丸い柱が立っている空間。作品は、その空間でのインスタレーションだ。

初めてこの空間に入ったアーティストは、当然にその物理的な空間を見たのだろう。そこに、物理とは原理の異なる力を加えて再構成した空間、というのが、このインスタレーションを見ての第一印象だった。
物理的には壁と柱で支えられ、天井と床の間の隙間を生み出している空間、そこには目には見えない押す力や引く力が働いているわけだが、サラ・ジーは別の力学をそこに加えて見せたのではないか。
部屋の一番奥にある柱を、タオルや枕を積み上げた柱状の物に置き換え、そこから荷造り用のロープやテープ、糸などを張り巡らす。ロープは滑車を経て段ボール箱などをつり下げている。日常生活の要素が生み出す、新しい押す力と引く力。力の均衡。もともとの物理的な力のバランスに新しいバランスが加わって、エルメスの空間は全く新しい空間、いわば次元を一つ加えた空間のようだ。

「生活」というのがこの作品のキーワードの一つであることには誰も異論はないと思う。並べられているのは衣食住そのものである。印刷業者が使うような色見本カードなどもあるが、作者にとってはこれも日常生活に違いない。
その、生活が、空間になる。生活空間ではない。生活というものを空間として、独特の力学が働く空間として見るのだ。
わけの分からないことを言っているように思われるかも知れない。自分でも、自分の印象が突飛かもしれないという思いはある。実は、このインスタレーションを見る前に、立ち読みをした本がある。ダニエル・タメット「ぼくには数字が風景に見える」。著者は共感覚の持ち主で、例えば我々には無味乾燥な数字の羅列であるパイも、彼にはビジュアルな線の流れとして感じられるのだという。だから彼は、風景を目に焼き付けるようにしてパイを2万2000桁覚えることができた。
歯ブラシ、タオル、枕、段ボール箱、ピーナッツ、電球、扇風機、等々の生活要素が、単に生活要素として見えるだけでなく、一種の空間的な力(重力や斥力や磁力のように)を持っているものとして感じられ、それぞれの力がうまく働き合い、均衡(静的とは限らず動的であってもいい)するように配置していったら、この作品ができた。そんな見方をしてしまったのである。

もちろん、作品には色々な見方がある。ぼくの同行者は、時間の流れを感じたという。そう思って見直すと、確かに、ここには積み上げられた時間、そこから滔々と流れていく時間がある。あるいは逆向きに、日々のささやかな流れが大きな流れを生み出し、やがて塔のようなモニュメントを創造するに到ったと見ることもできるだろう。

また、当然、銀座のメゾンエルメスという、富の象徴のような社会的意味を帯びた空間に、何気ない、穏やかな日常を展開し、豊かさの意味を問うているのだと見ることも可能だろう。

あるいは、ぼくの同行者が驚喜していた作品の細部、例えば、少し傾けて床に立てられた、青い点つきナッツを刺したピンの集まり、というようなところにこそ、作者のエネルギーの相当部分が封入されている、というようなこともあるのかも知れない。
そういう色々な見方ができることが、この作品の大きな魅力だと思う。

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読み返すと、サラ・ジーのこの作品の固有性が殆ど書けていない。インスタレーション一般に当てはまることばかりだ。しかも凡庸。
本来、大幅に書き直すべきなのだろうが、きちんと直せる見込みもない。この作品に対した時のぼくの視点が、そもそも個を捉えきれないようなものだったような気もする。
情けないが、このまま晒しておく。

Monday, January 28, 2008

テレビ

ふだんは朝のニュースぐらいしかテレビを見ないのだが、昨日は珍しく合計3時間以上見た。

1 日曜美術館
 パティシエの辻口博啓氏に長谷川等伯「松林図」を語らせるという趣向。パティシエならではだなと思ったところは特段なかったが、七尾出身ならではの見方があり、そこは斬新だった。
 あの松林は、海から見たものに違いないというのだ。テレビカメラは、現在の七尾の防風林を船から撮してみせたが、なるほどと思えた。若き等伯が京都に上る時、荒れた海から見た強風に耐える松林だというのが辻口解釈。長男を亡くした等伯が、悲しみのどん底で、自分の原点である郷里の松林を、苦難に耐えてさらに進もうという思いで描いたというのだ。辻口氏自身の若い頃の苦労をそこに重ね合わせて。
 等伯の心理は分からないが、今までぼくは松林図をどちらかというと静的なものとして見てきたので、動的なものと見る視点は新鮮だった。

2 大阪国際女子マラソン
 15キロあたりから折り返したあたりまでしか見ていない。初めてのフルマラソンでこんなに飛ばして、福士は途中でダウンするんじゃないだろうかと思ったが、あとでニュースで見ると、転びながらのゴールイン。
 結果からすれば、無謀な走りだった。でも、無謀な挑戦によって切り開かれる地平も間違いなくある。挑戦することを選んだ福士に拍手。

3 大相撲初場所千秋楽
 これより三役のみ視聴。というか、結びを見たかったわけだが。
 がっぷり四つの力相撲。朝青龍が吊りきれずわずかに力が抜けたところを白鵬の目の醒めるような上手投げ。相撲はこうでなくっちゃ。観客も協会もみんなハッピーでした。

4 大河ドラマ「篤姫」
 主役がのびのびやっていて気持ちがいい。高橋英樹の島津斉彬ははまりすぎ。この人、お殿様以外だったらどうするんだろう。
 一杯やりながら気楽に見て、ちょっぴり歴史も勉強できるこういう番組も、悪くないな。題材が大河向きじゃない(つまり、史実としてのエピソードが少ない)と、途中だらけてしまうけど、今回は幕末だからその心配はないでしょう。

Tuesday, January 08, 2008

当面の方針2008

1年前に書いた当面の方針は、3つのうち一つしか守れなかった(Emotion Machineを読む)。その一つも、期限を大幅にオーバー。
意志がすこぶる弱いとも言えるし、その意志の弱さを踏まえた現実的な方針ではなかったとも言える。いずれにしても、自慢できた話ではない。

以下の2008年版、少なくとも現時点では、なんとか守れると思うのだが・・・

1 毎月少なくとも2冊、本を読む(文芸、ハウツー等除く)。
2 毎週少なくとも1回、ブログを書く。
3 毎週少なくとも10分、英語を使う。
4 毎週少なくとも30分、運動する。
5 一人で外で酒を飲むのは、週1日以下とする。

Saturday, October 27, 2007

北大路魯山人と岡本太郎展

10月21日、笠間の陶芸美術館で。

この二人には、魯山人の書の師匠は岡本太郎の祖父であり、魯山人は太郎幼時の岡本家に住み込んでいたという接点があったことを本展で初めて知った。その接点を手がかりに二人の作品を見ていくと、何か新しい発見があるだろうというのが本展の企画意図なのだろう。
ぼくにとっては、発見はあった。ただし、企画意図とはずれているのかもしれない。

第一室は魯山人が中心。中に、岡本太郎主催の茶会の様子なども展示されている。
魯山人については、こんなにいいものだったのだと改めて思った。一つ一つの作品の完成度、質の高さ、ということとは別の意味でなのだが。例えば、何点か出ていた書と絵による屏風などは、書としてどうなのかは自分には分からないし、絵も俳味の強いもので、見る者として「芸術作品」に対峙する構えにはならない。しかし、これの置かれた部屋で酒を飲んだらさぞ楽しかろうと思える点では天下一品なのだ。食器、特に焼き物も同様で、これに刺身を盛ったら映えるだろう、これで煮物を食べたら旨かろう、というものばかり。花器も、その作品のみで鑑賞するよりは、花を生けてこそというものなのだ。
つまり、魯山人の作品は、茶事や会食の場、人と人との出会いの場という空間の一構成要素として捉えた時、その抜群の価値が現れるものであると思われた。
これは、本展の後、常設展で見た板谷波山が、作品のみで全きものとしてあり、そこに花を活けることも煮物を盛ることもためらわれるのとは際立って異なるものだ。
写真や資料で示された岡本太郎の茶会の様子は面白かった。茶会の本質は、そこに集う人々の持つ様々な知性や感性が触れ合って起こす化学反応にこそあり、どんな化学反応が生まれるかはメンバーの選考に拠る所が大きいのだなということが、まず思ったこと。道具立てを含む場の仕立ては、その化学反応のための触媒であって、触媒が違えば客のどこが刺激されるかが違うから、化学反応も異なってくる。湯を釜で沸かさず薬缶で沸かした太郎の意図も、そう考えて見れば、常ならぬ化学反応を起こしただろうと理解できる。

しかし、第二室の岡本太郎の作品には、共感するところが少なかった。どころか、違和感のようなものを覚えた。描かれている要素同士が一つの全体を構成するために共鳴する、共振するということがない作品なのだ。例えば、原色で描かれた炎のようなものの下に黒い太い蛇のようなモチーフを描いた作品。炎はたとえば宇宙の原初のエネルギー、その爆発とも見えるのだが、そのカオス的なものと、蛇的形態が共振しない。全く別個の無関係な存在であって、この二つが一つの空間に共存することなどあり得ないと感じてしまう。
別の、壁画のような大きな作品においても、目の化け物のような形態が他の要素と響きあわない。
絵画とは、異なる要素を統一的な全体として構築するものという観念をもって臨むと、裏切られるのだ。

恐らく岡本はこの違和感をこそ表現しようとしたのだろうとは思う。
全く異質なものを目の前に一緒に放り出してみせるということなら、例えば川俣正がその典型であるように、現代アートの一特性といえるのかもしれない。しかし、川俣と岡本はあきらかに違う。
川俣が街の一角に工事現場で用いるような板をはりめぐらすとき、この板は、街の持っていた一面を照射するのである。乱雑に貼り付けられた板の質感を感じながら石造りの建物、それらが構成する街の一角を見る時、普段ほとんど意識されていなかったこの街の質感、特性が浮かび上がり、強く感得されるのである。
これに対し岡本が原初の爆発のごとき色の隣りに描いた黒い蛇状のものは、爆発の意味を浮かび上がらせることはないし、原初の爆発によって黒い蛇の意味が見えてくることもない。無関係なままなのである。
見る者の眼力不足というだけのことなのかも知れないし、全く異なる観点から見れば大きな価値があるのかも知れないが、ぼくには、違和感ばかりが強かった。

違和感があまりなく素直に楽しめたのは、書とデザインをミックスしたような作品。夢などの文字をデフォルメし黒で大きく書いた周囲に、様々な色の、文字と同じほどの太さの線を配し、文字はすぐには判別できなくなっている。色と線によるバランスのよい構成であり、そこに勢いも加わるから、悪くない。
一見しては文字が分からないようにしようという企図ゆえに、黒い文字の線と他の色の線を溶け込ませるように全体を描いた、その結果として違和感のないバランスが得られたのだと思う。また、書という、自分の好みだけでは形状を決定しきれない、言ってみれば他律的な構成要素を用いたことが、岡本の意識に多少なりとも枠をはめ、全体の統一性に向かわせたようにも思える。

空間全体を構成する要素として書が生かされた、この点は、魯山人と岡本に共通する。このことが、二人に接点があったことと関係があるかどうかは、本展では読み取れなかった。

Saturday, September 29, 2007

「牛乳を注ぐ女」

国立新美術館にフェルメールを見に行った。
展覧会自体は、「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」という名のとおり、フェルメールは当然ながら一点のみで、その他は全て同時代の別の画家のもの。早くフェルメールを見たい気持ちを抑えて、第一室から見ていく。40cm×30cm程度の絵が多い。なかなかに見事。女性の表情が生きている。テーブルクロスの質感なども実によく描かれている。この時代の空気が感じられるような佳品多数。

何室目かに多くの人が立ち止まっていて、いよいよかと思ったら、解説のための映像等を見せる部屋だった。これが大変優れた解説。青色の原料となる高価な石が印象的だった。
そして、次の部屋に「牛乳を注ぐ女」。

全然違うのだった、そこまでに見た他の画家たちの作品とは。
存在感、リアリティ、ありきたりの言葉しか出てこないが、質の違う存在感、リアリティなのだ。
女性の表情ということなら、実在の一人の女性の生き生きとした表情をとらえ、「ああ、これはどこの誰だ、彼女のこの笑顔がいいんだ」と知り合いたちが思うに違いないリアリティを持った絵が他に何枚もあった。
台所空間の表現でも、現実の台所の様々なにおいや、器の当たる音なども感じられるような絵を、他の作家たちはたくさん描いていた。
フェルメールのリアリティは、そういう類とは異なるのだ。

普遍性。永遠性。
26歳にして、フェルメールは、個々の物や人のリアリティではなく、目の前の事物を通して普遍的な事物の存在感を表現することに成功した、そう思われた。
現実の何某嬢の姿を借りて、「牛乳を注ぐ女」という普遍的な存在を描く。
ポットから流れる目の前の牛乳の姿を借りて、「流れる牛乳」という普遍的な物ないし現象を描く。だから、この牛乳は、永遠に流れ続けているかのようなのだ。
1658年何月何日かのある瞬間をキャンバスに固定したのではなく、その時流れていた時間を現在にいたるまでずっと流れさせているのだ。

これまで腑に落ちることのなかったプラトンのイデアとは、実はこういうことだったのかと思った。

Thursday, September 27, 2007

Stella by Starlight

この曲、スタンダードにしては、ヴォーカルより楽器のみの演奏で聴くことが多いのだが、理由は単純だった。もともと歌詞のない映画主題歌で、ヒットした後からNed Washingtonが歌詞をつけたとのこと。「もともとインストゥルメンタル・ナンバーとして作られたものなので、
音域が「1オクターブと完全5度」とかなり広く、シンガーにとっては難曲中の難曲」なのだそうだ。 (ジャズ・ピアニスト大関敏夫さんのブログより)

(歌詞)
The song a robin sings,
Through years of endless springs,
The murmur of a brook at eventide,
That ripples by a nook where two lovers hide.

That great symphonic theme,
That's Stella by starlight,
And not a dream,
My heart and I agree,
She's everything on earth to me.

なんともロマンティック。
(実は、そう理解するまでに何度か辞書を引いた。)

シナトラの流れるような声を聴いていると、歌うのがそんなに難しいという感じはしないのだが、試しに歌ってみたら、高いところのレガートをすーっと伸ばすところその他、どうにもならなかった。ぼくがだめだからプロにとっても難曲、ということにはもちろんならないけど。

Sunday, September 16, 2007

デザインをちょっと変更

このblogを書いているbloggerの機能が拡張され、好みで色々なアイテムがつけられるようになったことを知った。
とりあえず、リスト機能を利用し、「読んでいる本、読んだ本」という項目を加えた。
ずっと以前に遡るのは大変だから、"Emotion Machine"以降に読んだものだけ載せてある。

Saturday, September 15, 2007

シェフ

水戸の中心街、とはいえ目立たないところにある一軒のワインバーが気に入っている。グラスで飲めるワインが日によって色々変わることと、料理の水準が高いことが理由。地下の小空間は、無機質なスタイリッシュさを狙っているようでいて適度な温かみがあり、居心地がいい。

久しぶりに昨日行ったのだが、女性ソムリエの表情がちょっと暗い。しかも、ぼくの1杯目のワインを決めたあとすぐに厨房に消えてしまい、出てこない。今まで見なかった男性スタッフが替わりにカウンターに立っている。

やがて戻ってきた彼女から出た言葉に驚いた。「シェフがやめてしまったんです。」

独特の風貌をした若いシェフだった。元々、ホテルのレストランで一緒に仕事をしていた男性ソムリエと共に独立し、このバーを開いたと聞いていた。(女性ソムリエはその後参画)
切れ味のいい料理が、ワイン、そしてこの空間に合っていた。ワインバーでは、ワインが主で料理は従のことが多いのだろうが、ここでは、組み合わせれば立派なディナーになる料理を出していた。サラダの野菜のしゃれた組み合わせや、肉や魚の絶妙の焼き加減には、毎回声を出さずにうなったものだ。前に食べた牡蠣のグラタンなど、火を通した牡蠣としてはぼくが食べた中で最高だった。

やめたと聞いた途端に、レストランに引き抜かれたかと思った。あれだけの腕だ、やっぱり形の上でも料理が主役の店を任されるのなら、そちらに行くかもしれないな、と。
しかし、そうではなかった。
子供がまだ1歳で、家庭を大事にしたい。深夜3時まで営業するこのバーではそれができない。深夜勤務のない、結婚式場に移ったのだという。

「それは残念だなあ」と、思わずソムリエールに言ってしまった。
「将来はレストランをやりたいという気持ちはあるようです。そのためにお金を貯めると言ってました」と彼女。志を捨てるのではもったいないというぼくの思いが見えたのだろう。
しかし、その後で、「でも、ああいうところで仕事をしていると、闘争心がしぼんでしまうんですよね」と付け足した。

決まりきった料理をいかに効率的にたくさん作るかが問われる職場なんかには、早く嫌気がさして飛び出してくれないか、などと、奥さんが聞いたら火を噴いて怒りそうな怪しからんことをつい思ってしまう。
自分では冒険をしないくせに、才能ある若者には冒険してほしいなんて、勝手極まりないのだが。

Monday, September 10, 2007

航空ショー

元々、航空ファンでもミリタリーおたくでもないのだが、一度見る価値はあると奨められ、昨日、自衛隊百里基地の航空祭を見てきた。

なるほど、見る価値は十分にあった。
時速何百キロの戦闘機などが、はるか上空まであっという間に垂直に上昇したと思ったら今度は地上に向けてまっ逆さまに降下してくる、しかも、途中で軸に垂直に機体を回転までさせて。予定の飛行と分かっていても、このまま落ちてしまわないかと少し心配になるほど。かと思うと、天地をひっくり返して飛ぶ2機が目の前でクロスしたり、近接飛行しダイヤを形作る4機が一斉に翼を垂直にしたり、等々。

操縦技術のことは全く分からないが、例えば、時速150kmの自動車4台がダイヤを崩さずに曲線を描くことだって大変なこととしか思えないから、間違いなく非常に高度なのだと思う。口をぽかんと開けてただ見とれてしまうことが何度もあった。

かっこいいと言う言葉が合うのかも知れないが、それ以上に美しいと思った。
とともに、いつもの癖が出て、なぜ美しさを感じるのだろうと考えた。
一つには、高度な技能でしか為しえないことだから。あのスピードにおいて整然とした動きを作りだす技能に、美を感じるという面はある。
もう一つは、直線、曲線の大きさ。日常的なスケールをはるかに越えるものにも、我々は美を感じる。
そして、もう一つ、だいぶ見てから気づいたこと。空の奥行きが感じられるのだ。空が3次元であることは分かっているけれど、それがどれほどの奥行きを持った空間なのか、普段は経験することができない。凄まじいスピードで目の前からはるか向こうへ突き刺すように飛んでいく戦闘機を見ると、それが明白なのだ。視覚は常に移動体の速度と経過時間から、空間の延長を捉えようとしているのだろう。ふだんは捉えようがない延長を感じられる快感。これが美の知覚を生み出しているように思う。

Sunday, July 08, 2007

ようやく読了 - Emotion Machine -

Marvin Minskyの"Emotion Machine"を読み終えた。年頭には4月末までに読み終えるという目標を立てたのだが2ヶ月以上遅れた。そもそも、この本に向かう日が少なかった。読みやすいとはいえやはり原書、ある程度の気力がないと本を開く気にならない。平日はほとんど読まず、週末も疲れている時には手を伸ばさなかった。半年がかりとは情けないが、ともかく読了できたのだからよしとするか。

分からない単語を推測で読み進んだところ、文意を取れないまま先に進んでしまったところも多々あり、内容の理解は6割程度というところだろう。それでも、これは極めて重要な本だと言い切れる。
2000年以上数多の哲学者が迷い込んだ道からの出口が、ここにあるのではないか。十分にそう期待できる。そこを出て新たに進む探求の道も途方もなく複雑で険しいことは、ミンスキーの示唆する通りなのだろうが。

ミンスキーは、この本を後輩研究者たちに捧げるヒント集として企図したようであり、明解な結論というものはない。語られているのは多くの仮説であるが、実に豊かな仮説である。数学におけるヒルベルトの問題のように。

従来simpleだと考えられていた心の働き、例えばfeelというようなものも、実は、多様な働きを一つの言葉で表現してしまっている、そこから迷妄が始まるとミンスキーは喝破する。Iとかselfとかconciousとか、みんなsuitcase wordなのだと。
都市においては商業、消防、教育、交通、上下水道等々の多様な機能が同時に働いている。それが様々な仕組みによってある程度統率されているからといって、都市にselfがあるというだろうか、ミンスキーはそう問うのだ。
脳について理解するには、多様な働きを一つ一つ解きほぐすしか道はないとミンスキーは考える。原始の生命においては環境に対し反射するだけだったものが、環境の変化に対応するために脳は進化を続けた、その結果我々の脳は、異なる方向を目指す複数の動きがあるときにそれらを統御する仕組みとか、一つの働きが脳全体を占領してしまう危険を避ける仕組みなどをも備えている。(こう書くとフロイトだって言っていることのようであり、実際にフロイトもかなり引用されているのだが、ミンスキーはフロイトが説いた心の働きも、脳というmachineの中の細々した様々な働きが多層的に組み立てられたものとしてさらに徹底的に解明しようとしている。)
こういうことまで含めて一つ一つを解きほぐし、その関係を明らかにするしかないのだ、それをselfとかの言葉でくくってしまうのではmagicを残したままであり、scienceではない、というのがミンスキーの姿勢である。
そして、本当に脳を理解するには、我々自身がposthuman brainを作るという試行錯誤を繰り返す中で、様々な発見をしていくしかないというのが、AIの父ミンスキーの結語である。

脳の探求というテーマを離れても、家庭教育(というかそれ以前の、親の子に対する態度)が脳の発達に与える決定的な影響についての部分は、印象的だった。こういうことを意識すると、親というのは実に大変なものなのだった、今さら手遅れだが。

そう遠くない時期に、もう一度読もう。次は7割理解できるだろう。"Society of Mind"も今度は原書で読もう。それぞれを何度か読み、関連する論文をいくつか読めば、ぼくの脳、心に対する理解はだいぶ進むと思う。そしてそのことにより、哲学がテーマとして取り上げなくてもいいことと取り上げるべきことの整理も多少できるのではないか。そうなったら、だいぶ安らかに晩年を過ごせそうだ。

Friday, June 08, 2007

iPodの「トップレート」(自分が高評価を与えた曲)を聴いていくと、面白い並びになるところがある。
Lee KonitzのKary's Trance.(何度も録音しているが、"Inside Hi-Fi"のもの。)
Lester YoungのAll of me.(iTunes storeの"Lester Swings"からiPodへ。元々は、"Pres And Teddy"のもの?)
Matt DennisのCompared to you.

どれを聴いても、粋だなあ、と思う。一方で、粋という言葉があてはまることは共通でも、粋さのありようは三者三様だなとも思う。
場所で喩えるなら、Lee Konitzは、ニューヨーク、午前0時過ぎのバーというところ。Lester Youngは、柳橋(行ったことないけど)、午後10時のお座敷。Matt Dennisは赤坂、午前2時のクラブ。
服で喩えるなら、Leeはジャケット、ノータイ。Lesterは和服。Mattはスーツ、ただし、ネクタイを少し緩めている。
では、粋という言葉で表現される三者の共通性とは何なのか。一つには余裕。余力を残して、なお高いレベルで演奏している。むきになったりしない。もう一つは、立ち位置が世間一般から見ての真ん中ではないこと、それでいて、世の中がよく見える場所に立っていること。

iPodでMattの次に出てくるのは、Sonny CrissのAll the Things You Are. これも大好きなのだが、粋とは感じない。力を出し尽くしているわけではなく、余力はあるのだが、真正面からぐいぐい押しまくる演奏。
同じ理由で、晩年のJohn Coltraneも粋じゃないということになる。Miles Davisは、別の理由、つまりメイン・ストリームのど真ん中すぎて、やっぱり粋じゃない。

思いつき。コンピュータに音楽を聴かせて、粋か粋でないか判定させようとしたら、現代の科学の粋を集めてなお足りないかもしれないな。コンピュータ独自の判断というのではなく、実在の人間A氏がこの曲を粋と思うかどうか判定せよ、という問題の立て方の方がよいかもしれない。

Saturday, May 19, 2007

tracking test

test


Sunday, April 29, 2007

Chi va piano

城山三郎が著書の中で紹介しているという「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」という言葉を知った(「フォーサイト」2007.5月号)。ワルラスが好んだ言葉だという。
前日、これとは全く反対のことをしてしまった悔いもあり、胸に沁みた。座右の銘はと聞かれたら、これにしようか。

原文はどうなのかが気になり、グーグルに打ち込むと答はすぐ出た。
“Chi va piano, va sano; chi va sano, va lontano.”
ワルラスだけではなく、パレートも言っているらしい。
もともとイタリアの諺に、"Chi va piano, va sano e va lontano."というのがあり、それをワルラスやパレートが好んだということのようだ。

pianoの日本語訳は「静かに」か「ゆっくり」がほとんどだが、自動翻訳では「身を低くして」とも出るらしい。
ネット上のItalian-English辞書を見ると、これらを包含したような語感のように思える。
http://www.wordreference.com/iten/piano

であれば、座右の銘は、原語のままにしよう。
"Chi va piano, va sano e va lontano."

Wednesday, April 11, 2007

"Struttin' With Some Barbecue" by Lee Konitz and Marshall Brown

Cool! Warm!

Tuesday, April 03, 2007

増嵩

読みが「ぞうすう」だとは知らなかった。ずっと「ぞうこう」だと思い込んでいた。
かなり恥ずかしい。
でも、知らないまま終わってしまうよりはよかったと思うことにしよう。
幸い、人前でこの言葉を読んだことはなかったような気がするし。

Saturday, March 24, 2007

コストコ

コストコに初めて行った(多摩境店)。国内の大型店では、久しぶりに新鮮な驚き。
そもそも会費制というところからカルチャーショックだし、会員登録の女性スタッフがアメリカっぽい日本人で、入店前から非日常的な気分になれる。
店舗は大型倉庫のイメージ、そこに、デジカメ、液晶テレビ、包丁、洗剤、キャンプセット、Tシャツ、ジーンズ、肉、パン、野菜、酒、等々生活関連の様々な分野、何百というアイテムの商品が置かれている。こう書くとスーパーと変わらないようだが、大違いで、一言で言えば、でかい。例えば、洗剤なら、アメリカスケールのボトルが10本だか12本だかのセットになっているし、パンなら、4人家族では3日かかりそうな数が一つの袋にはいっている。包丁なども10本以上のセット売り。ピザなどは日本のオーブンにはそもそも入らないサイズだ。
単価を考えるとかなり安く、惹かれるのだが、こんなに買っちゃって使いきれるのか、食べきれるのかというものばかり。
結局、買ったのはミネラルウォーターと、ワイン、ブランデー。悪くならないし、飲みきることは間違いないから。

Wednesday, March 07, 2007

緊張対策

人前で話をしなければならない時など、やはり緊張する。緊張は重要な場面で力を出すための生体反応だろうから、適度な緊張は望ましくもあるわけだが、過度になると出だしの言葉さえうまく出なかったりして具合が悪い。
対策として一番使っているのは深呼吸。その昔、受験生だったころは自己催眠もよく使ったが、目を開けていなければならない時にはなかなかかからないので、この頃はあまり使わない。
深呼吸は簡単だが、頭の中の張り詰めた感じまではなかなか解けない。
その点、最近使ってる手は結構効く。頭の中で歌を口ずさむ(?)のだ。黙読の音楽版。

どんな歌でもいいわけではない。明るく弾むような音楽が合うかというと、さにあらず。実際の心のありようとかけ離れていてはダメなのだ。
マイ・ベストは"I gotta right to sing the blues." ビリー・ホリデイの歌で何百回と聴いてきた曲だ。鬱々とした基調と、ズンズンズンと静かにしかし一種の強さを持って打たれる3拍の重ね方の妙、この辺が脳にうまく働いているような気がする。

本題から外れるが、歌詞はこうだ。

I gotta right to sing the blues
I gotta right to moan inside
I gotta right to sit and cry
Down around the river
A certain man in this little town

Keeps draggin my poor heart around
All I see for me is misery

(繰り返し)

Soon that deep blue sea
Will be callin me
It must be love say what you choose
I gotta right to sing the blues
I gotta right to sing the blues
(歌詞 Ted Koehler)


"gotta right to"はどう日本語に訳したらいいのだろう。恥ずかしながら、初め聴いた時は(ブルースを歌う)「権利を得た」ととりそうになったが、もちろん大間違い。gottaはhave to、rightはすぐに、とか、本当に、といった意味の副詞だろうから、「ブルースを歌うしかないわ」といったところか。

Thursday, February 01, 2007

松屋で

ホテルに泊まった翌朝はコンビニおにぎりになってしまうことが多いのだが、たまにはあったかいごはんを食べようと、松屋へ。牛めし・豚汁定食。なんで朝からこんなメニューを選んでしまったのだろう、牛めしというだけでも十分朝らしくないのに、豚汁までつけるとは、などと自省(笑)しつつ黙々食べていた。
(まあ、考えるのが面倒で、チケット販売機の一番左上にあったボタンを押したからなのだが。)

あれ、っと思った。なじみのある曲がBGMとしてかかっている。
ジョアン・ジルベルト!

2月の朝7時、牛めしと豚汁を食べながら聴くジョアン。いやはや、これだけ妙な組み合わせもそうはないだろうな。

Tuesday, January 23, 2007

"My Romance"

Carmen McRaeは、言うまでもなく素晴らしい歌手だ。ただ、ぼくの場合は、彼女の歌うBillie Holidayのレパートリーをどうしても本人のものと比べてしまうので、Aにマイナスをつけてしまう。Billieは全く別格なのだから、Carmenには申し訳ないのだが。
というわけで、ぼくがCarmenの真価を理解するのは、Billieが歌わないような曲を聴くとき。例えば、"My Romance"。少しも奇を衒わず、丁寧に、しみじみと歌う。歌詞の一つ一つが、素直に胸にしみこんでくる。

My romance doesn't have to have a moon in the sky
My romance doesn't need a blue lagoon standing by
No month of may, no twinkling stars
No hide away, no softly guitars

My romance doesn't need a castle rising in Spain
Nor a dance to a constantly surprising refrain
Wide awake I can make my most fantastic dreams come true

My romance doesn't need a thing but you
My romance doesn't need a thing but you


この歌詞、not, not, no, noと続けておいて最後にbut youと来る。強調の見本のようだけれど、ありきたりの感じがしないのは、blue lagoonとか、Spainのcastleとか、いかにもロマンティックそうなイメージの喚起のしかたがうまいからなのだろうな。

(中学の英語で、not butの構文を勉強する時に使ったら、生徒たち喜んで覚えるかも。)

Friday, January 05, 2007

当面の方針

1 "Emotion Machine"を読む。読了目標2007年4月30日。(週平均30ページ)

2 安酒は飲まない。境界は日本酒換算720mlあたり2000円。(43度のウィスキーなら分量3倍と見る)

3 blogを介しての友人を2桁に増やす。

Friday, December 29, 2006

チョコレート

酒も好きだが、甘いものも好きだ。
急に上等のチョコレートが食べたくなり、名前だけは聞いたことのあるラ・メゾン・デュ・ショコラにネットで注文した。一番小さな、トリュフの袋詰め。

一粒のチョコレートで、こんなに幸せな気持ちになれるとは。持続数分とは言え、驚き。

Tuesday, December 19, 2006

山水画

フォーマットと言えば、山水画のフォーマットもすごい。

北京の瑠璃廠には、書画骨董の店が何十、いや恐らく100店以上も並ぶ。当然、あまたの山水画が掛けられているのだが、2、3万円も出せば、そこそこの絵はいくらでも手に入りそうな気がした。絵の前から動けなくなるほどの名品というわけではないが、わが家に掛けて一応満足できる水準には達している。

これも、前に書いたジャズと同様、フォーマットがよくできているからなのだと思う。ある程度の技量を持った画家なら、このフォーマットにしたがって描くと、それなりの絵にはなってしまうのだ。

一方で、そのレベルを突き抜けたものとなると、やはり少ない。瑠璃廠でも、うなるような傑作は一部でしかなかった(奥にしまわれている可能性はもちろんある)。少ない分値段も跳ね上がり、150万円とか、200万円とかする。

いい掛け軸があったら一点買ってもいいと思いながら行った瑠璃廠だったが、結局、そこそこのものはありすぎて一点を選ぶことができず、かと言って傑作にはとても手が出ず、何も買わずじまいだった。
そのかわり、別の形の山水画を買った。内画といって、小さなガラス瓶の内側から描かれている。許歩さんというアーティストの実演を見せてもらったが、瓶の細い口から先端の曲がった小さな筆を入れて描く。信じがたい技。
これも、山水画のフォーマットができあがっている分、技に神経を集中できるからなのではないかと思う。

内画の題材は山水に限らず、書、人物、動物、西洋名画のコピー等様々あるが、壷中天を生んだ国だから山水が一番と勝手に決めている。

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案内してもらったBさんが1日目に連れていってくれた王府井の工芸品店では、作品は色々あったが実演は見ることができなかった。翌日の瑠璃廠で初めて目の前で見、最も驚いたのは、なんということのない感じで描いていることだった。

内画の存在は今まで全く知らなかったが、これは、中国に行ったのは昨年が初めてという当方の事情が原因で、内画による工芸作品は空港の土産物店にも置いてあるポピュラーなものだった。

ネットで探したところ、関連情報は想像以上に多い。内画は色々な物に描かれているのだが、sniff bottleのコレクションとの結びつきが一番強そうで、sniff bottleで検索すると内画がたくさん出てくる。(sniff bottleには内画以外のもの、例えば外側に彫刻を施したものなどもある。)

Tuesday, December 12, 2006

北京のジャズ

北京でジャズが聴けるバーというリクエストに対し、日本からの留学生M君が見つけてくれたのは「東岸CAFE FAZZ」。前海の東岸にある。

演奏したのは、このバーのオーナーでもある劉元(LIU YUAN)が率いるクインテット。
実にまっとうなメインストリームジャズだった。コルトレーンがシーツオブサウンズに至る少し前あたりの感じだろうか。5人とも、腕はしっかりしている。中でも、ドラムの切れの良さはかなりのものだった。欲を言えば、もう少し過激に走ってもらってもいい、特にリーダーでサックスの劉氏には。

M君のブログを読むと、なぜ北京でジャズを聴こうなどと思うのか、初め不思議だったようだ。
ぼく自身は、それほど考えもせず結構面白いかもと思っただけなのだが、後から考えるとこれは直感がうまく働いたと思う。
これまで海外ではニューヨークとサンフランシスコと上海でジャズを聴いた。いずれも多様な文化がぶつかりあう、喧騒と混沌の大都会。こういうところでこそ、いいジャズは生まれるということを、考えることなく、予感したのだろう。

ジャズというのは、フォーマットがよくできているのだと思う。このフォーマットがあるからこそ、ある程度の力をつけたプレイヤーなら、その中で好きなだけ創造性が発揮できる。
一方で、フォーマットにうまく合わせさえすれば、凡庸な演奏でもそこそこ聴衆を喜ばせることもできてしまう。
独創性を重んじているはずのアメリカであっても、そういう凡庸な演奏の方が実は多いのだと思う。これまでに何十年もジャズが演奏されてきた国であるがゆえに、意識の有無にかかわらず過去の名演の模倣になってしまう危険はある。聴衆の側も、ジャズとはこういうものだという理解があるがゆえに、それで満足してしまう者が少なくないだろう。
おそらく、北京はジャズの演奏、受容いずれについてもまだ若い。蓄積が少ない分、アメリカのベテランプレイヤーなら手馴れたフレーズでも、北京では1回1回の演奏にまだ試行錯誤的な要素があるのではないか。その挑戦的な気分が聴衆にも伝わり、場がホットになる。実際には50年代後半のアメリカで何度も演奏されたようなフレーズであっても、気分の高揚を覚えながら聴くことができたのは、そのためなのだろうと思う。
できることなら、世界史があまり経験したことのないようなスピードで自国の古い文化の破壊を伴いながら他国の新しい文化が入り込んでいる中国でこそ、今までどこにもなかったようなジャズを聴いてみたいものだが。
というわけで、劉氏のチャルメラを聴けなかったのも残念だった。

もう一つ残念だったのは、一部聴衆の態度。ステージに近いテーブルは概ね熱心なジャズファン風だったが、演奏お構いなしにおしゃべりを続け高らかに笑う若い女性グループも一、二あった。ニューヨークのバーにいても様になりそうな彼女らにとっては、ジャズはおしゃれな場を構成する要素に過ぎないのだろうが、客がこれではプレイヤーは突き抜けた演奏をする気にはなれまい。

Thursday, December 07, 2006

2冊の本

読売の渡邉恒雄氏が日経の履歴書を書いている。氏については、大衆週刊誌等が提供してくれるままのイメージしか持っていなかったが、どうもそれは一部を拡大しているだけなのかもしれない。

兵役に就いていた終戦間際、理由も分からず短期帰宅を許された渡邉氏が兵舎に持ち帰ったものは、カントの「実践理性批判」とウィリアム・ブレイクの詩集だったとのこと。
哲学科後輩とは名ばかりで実際には全く哲学の勉強をしなかったぼくだが、これには少なからず感銘を覚えた。哲学を学ぶ者の鑑のような選択だ。カントのところはプラトンとかパスカルとか人によって選ぶものは異なるだろうし、ウィリアム・ブレイクのところはさらに幅が広がるだろうが、哲学書と詩集、これは究極の形だと思う。

ぼくだったらどうするだろうか。詩集はゲーテかなあ。詩ではないけれど、イタリア紀行もいいな。いや、やっぱりファウストか。それならいっそ、(恥ずかしながら)まだ読んだことのない、ダンテの神曲か。
哲学書の方は、この一冊という程読み込んだ本がないのだから情けない。少し枠を広げて哲学関連ということにすれば、ミンスキーの「心の社会」か、先日読み始めた"Emotion Machine"あたりだろうか。兵舎では目立ち過ぎてぶん殴られそうだが、独房なら1,2年色々思い巡らすのにちょうどよさそう。

Tuesday, December 05, 2006

大山子芸術地区

今回、北京に行った一番の目的がここ。現地では、「798」の名前の方が用いられているようだった。
元国営工場の建物にギャラリーやアーティストのスタジオが入っているというので、大型の建物数棟と思い込んでいたが、実際には、大小様々の建物群だった。エリアの規模は数百m四方というところか。去年行った上海の莫山干路の数倍はある。
エリアの隣りには企業の研究所、その先には普通の店が並ぶなど、物理的には日常の世界と連続しているのだが、やはりこのエリアの雰囲気は独特。

見た中で一番大きな建物は、屋根が印象的。三角状というか、断面が4分の1円の扇形に近い屋根が何列も並ぶ(写真がないと通じないな)、かつての工場。高い天井からの光と、壁の古び方がほどよい大空間。行った日には、展示の大部分は朝陽区の紹介パネル等(これはこれで面白かったが)。アートワークは一部だったが、壁をテーマに与えられた3人のアーティストの作品は、いずれも見応えがあった。一枚、買ってもいいなと思ったのもあったが、長さ4mほどあり、飛行機に持ち込めない。

From beijing061122-26


「大山子芸術地区」の銘がはいった石碑近くの建物は、大小のギャラリーに区分されている。入り口にはカフェも。一つの小ギャラリーでは、文化大革命時代の写真展。「偉大的指導者毛沢東主席万才」等々と教室の黒板に書かれた前で、20代か30代の女性達が本当ににこやかに踊っている写真に、しばし見入った。自分達を初めて社会の表舞台に出してくれたという思いが、多くの農民にはやはりあったのかもしれない、貧しいことに変わりはなくても、などと考えながら。
別の大ギャラリーでは、女性の足をかたどった大きな立体作品。ニキ・ド・サンファルのようにまるまるとした足の先は纏足。足の広げ方自体はエロティックなのだが、コミカルな感じが先立つ。同じ作家による、女性性器を巨大化してバスタブにした作品も笑える。

少し離れた建物にあるギャラリーでは、毛沢東やアメリカのブランド(コカコーラ、マクドナルドなど)をモチーフにした作品が色々展示されていた。ぼくは、毛沢東をアートにする以上、当然批判的視点なのだろうという先入観で見ていたのだが、一緒に行ってもらったM君はそうでもないのではないか、逆に毛沢東に対する敬意のようなものが感じられるという見方だった。
このギャラリーだけでなく、ウォーホルを思い起こさせる作品がかなりあり、彼はこんなに偉大だったのだと今更ながら思った。

「江湖」というなかなかしゃれたレストランもあったが、フランス料理だというのでそこには入らず、小さな中国料理レストランで昼食。煮魚が実においしかった。

エリア内には美術書中心の書店もあり、そこで「798」という写真集を買った。このエリアの空間と、ここで活動するアーティストの姿が実によく写し出されている。

今回は3時間程度しかいられなかったが、1日たっぷり楽しめる場所。また是非来よう。

Monday, December 04, 2006

北京の柳

From beijing061122-26


柳がこんなにきれいなのだと思ったのは初めて。
柳を見たのは、北海の周りと、北京大学構内の大きな池の周り。人工の並木なのだろうが、よくある桜並木の直線と違い、池の端に沿う曲線が実に心地よい。北海は夏場はカップルのデートコースとして人気だというが、さもありなん。

日本でよく見る柳に比べ、一枚一枚の葉の幅が広いのだろうか、 重量感というと大げさなのだが、下に向かう力を感じる一方で、それを支える枝のしなやかさもより強く感じる。しだれる枝と枝の間隔も微妙に違うのか、あるいはこれも葉の大きさのゆえなのか、日本の柳は葉と葉の隙間を感じるが、北京では重なりを感じる。幹もずっと太い気がする。
総じて、日本の柳を楚々というなら、北京の柳は妖艶に近いか。

ところで、北京大学のキャンパス(西門側)は、ちょっと日本では見られないものだった。公園の中に、ぽつんぽつんと建物がある趣で、その建物が独特のデザイン。いかにも中国風というわけでもないのだが、欧米風とは全く異なる。大学が、自国の文化の伝統にきちんと根ざした場であるべきことを、黙って示しているようだった。日本には、これだけの主張をもったキャンパスがあるだろうか。

Wednesday, November 29, 2006

不知道

先週は木、金、土のまるまる3日間、北京で遊んだ。その印象は、この後少しずつ書くとして、まずは、小さな 発見について。

ホテルのテレビを付け、アメリカの映画を見るともなく見ていたら、何度も字幕に「不知道」と出る。その場面の音声は"I don't know."
自分の行った高校の同窓会の名前が「知道会」。道を知るという、深みのある言葉が気に入っていたのだが、日常会話で簡単に使う言葉でもあったようだ。

見方を変えれば、"know"自体が、大変に深みのある言葉だと言うべきなのかもしれないが。

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中国での言葉の話題をもう一つ。
帰りの飛行機は日曜日午前9時5分発なので、朝6時にホテルをチェックアウト。ベルボーイにタクシーを呼んでもらうつもりでいたが、いない。外に出てみるとホテル前にタクシーが並んでいたので、これ幸いと乗った。「エアポート」と言ったら、少し変な発音ながら「エアポート」と繰り返してくれたので、安心した。運転手の知っている唯一の英単語かもしれないななどと思っていると、大きな交差点でもう一度「エアポート」と確認してくる。うなずきながらエアポートとこちらも繰り返す。自信がないのかなあと少し不安になり、前日までガイドを頼んでいた人に携帯電話をかけたがつながらない。かなり焦ってくる。そこでいい手を思いつき、紙に「北京空港」と書いて、運転手に見せた。これが大間違いだった。
運転手は、「クガン」とか言いながら首をひねっている。港の簡体字があるのかなどと思うが、分からないから、仕方なく、「空港」をさしながら「エアポート」と何度も絶叫。運転手も、やや疑問を残しつつも腹を決めて(なのだろうと推測)、「エアポート」と言いつつ進行。
かなり進んだころ、道路標識に「首都机場」の文字(場は実際は簡体字)。そうか、空港は機場だったと思い出し、安心した。
さらに進んで、「机場高速」にはいる手前で運転手が最後の確認。「エアポート」? ここで、またいい手を思いつき、身振りで飛行機が飛ぶ真似。運転手、ニコッとして、今度こそ確信を持って進行した。なぜ、この手を最初に思いつかなかったんだろう。(絵を描いてもよかった)

実は、これでめでたしにはまだならず、空港にはいってから、右に進むか左に進むか聞かれて往生したのだが、その話は省略。

Sunday, November 05, 2006

phishing

危なく引っかかるところだった。
PayPalからこういうメールが来たので、素直にログインしてしまったのだ。

Dear valued PayPal member,
It has come to our attention that your PayPal account information needs to be updated as part of our continuing commitment to protect your account and to reduce the instance of fraud on our website. If you could please take 5-10 minutes out of your online experience and update your personal records you will not run into any future problems with the online service.
However, failure to update your records will result in account suspension. Please update your records on or before November 5, 2006.
Once you have updated your account records, your PayPal session will not be interrupted and will continue as normal.
To update your PayPal records click on the following link:
http://www.paypal.com/cgi-bin/webscr?cmd=_login-run
Thank You.
PayPal Update Team



メールには何の疑いも持たなかったし、行った先のサイトにも疑いを持たず、もう少しでクレジットカードナンバーを打ち込んでしまうところだった。
幸い、その前にgoogleが警告メッセージを出してくれた、phisingの疑いあり、と。今までで一番googleに感謝。

後で本物のPayPalサイトを見たら、注意事項が色々書いてあった。その一つ。偽者は、メールの中にメンバーの名前が書いてない。!!
そんなことにも気づかなかったとは、われながら情けない。

自分はこういうのには引っかからないとたかをくくっていたが、とんでもない。こういう人間の方が危ないのだなと、しみじみ反省。

Wednesday, November 01, 2006

声質

先日、ハンガリー国立歌劇場の水戸公演でトスカを見た。
東京公演を終えた直後の地方巡業で、トスカは4番手、マリオも2番手の歌手であったが、なかなかよかった。特に、トスカは純度の高い声に好感が持てたし、Vissi d’arte, vissi d’amoreも聴きごたえがあった。
一方のマリオは、きれいではあるのだが、少し線が細いかなという声だった。

公演前にCDで予習をして、のめりこんでしまったのが第一幕の二重唱。車を運転しながら聴いていて陶然とするほどだったが、生の声ではそこまではいかなかった。
声質の差によるところが大きいのだろうと思う。CDの方は、カラスとディ・ステファーノによる1953年の録音。カラスの声は、単純な美声ではない。色々 な成分の混ざり具合が、ドラマティックな歌に適した声を作っている。ディ・ステファーノの声は、妙な喩えだが、上等な和牛のようとでも言おうか。脂っこく はないのだが、旨みの重要な要素は脂肪成分なのだと思う。

自分には、声質を表現するボキャブラリーがほとんどないことに呆れるばかりだが、食べ物、飲み物に助けを借りるのは結構いい手かもしれない。
カラスとディ・ステファーノは、タンニンのほどよく効いたボルドーと上等なステーキの組み合わせ、とか。
水戸公演の二人は、すっきりした赤とチキン?

Saturday, October 14, 2006

牛乳有害説と反論

新谷弘実「病気にならない生き方」が説く牛乳有害説には、乳業関係各方面から猛反発があるだろうなと、実は結構期待していたのだが、新聞雑誌等では目にしたことがなく、不思議に思っていた。webに一つあった。日本酪農乳業協会のHPが、畜産化学専攻の北大名誉教授仁木良哉氏の反論を載せている。

新谷氏の論旨展開は、科学的にきちんと証明するというスタイルではないから、科学者の立場できちんと議論してもらえるのは、大歓迎。仁木氏の主張が新谷氏の主張を完全に論駁しているかどうかまだ疑問は残るが、牛乳のタンパク質の分子構造を根拠にした議論にはかなり頷ける。(新谷氏は高温殺菌よりも均質化を問題にしていたように思うがそれについては触れられていないのが残念)

(科学的議論ではないが、いとうこういち氏が書いているここもエキサイトしていて面白い。)

一方で、ぼく自身、新谷氏の本を読んでから、牛乳は飲まない、替わりに小魚をたくさん食べる、チーズもほとんど食べない、水を大量に飲む、という食生活に切り替えてしばらくたつが、体調は好調だ。少なくともどこも悪くなっていない。(肉を減らし、酒を減らせば、たぶんもっと良くなるのだろうという予感はするがやめられない。)
結局のところ、人間の体は非常によくできていて、あまり極端に偏しない限り摂取した食物から必要な栄養素はちゃんと吸収しているということかも。

一般に、食品に関して何を摂るべきだという主張は、拝聴はされても実際には厳格に守られていないような気がする。大雑把に好きなものを食べていても結構元気を保ってる人が多いからだろう。
一方で、何を摂ってはいけないという主張には、過敏に反応するような気がする。危ない、という言葉に我々は神経質だ。
いとうこういち氏は、新谷氏はこの心理を利用して危機感を煽り、同時にエンザイムを増やすなんとやらを売りまくって金儲けをしている、と見るわけだ。

そうでないと言うだけの根拠をぼくは持っていない。そうなのかも知れないとも思う。
ただ、新谷氏の本を読んで、現在の牛乳や乳製品があまりに人工の手を加えすぎた食品であるという印象は強まった。そこになんとなく不安を覚え、同じカルシウムを摂るなら人工過程の少ない小魚の方がいいかもと思い、科学的根拠は不十分と思いつつ牛乳をやめている。(タンパク質や他のミネラルは、牛乳以外の食品から十分に摂取している。) 同様の人も多いのではないか。

新谷説に対し、牛乳は有害ではない(肉も、油脂も同様)と科学者が反駁するのは、簡単なことなのかもしれない。それでも、人工の手が加わりすぎた食品に対する漠然とした不安感はなかなか拭えないように思う。そこに、「人間以外の動物で大人になって乳を飲むものなどいません」という新谷氏の分かりやすい言葉が入り込む余地がある。科学的にはあるいは全くの妄説かもしれないが、結果的には聞くべきことを持っている可能性もあるのではないか。

科学者側には、馬鹿馬鹿しくて論ずるに値しないなどと考えずに、きちんと新谷説を論駁してほしいし、新谷氏側には、科学の土俵に乗ってその論駁をきちんと受けとめ、ここは間違っていたがやはりこういう危険がある、といった主張をしてほしいものだ。

Friday, October 13, 2006

呆れた発明

赤ちゃんが夜鳴きをすると母親が子供を抱くようなリズムで自動的に揺れて寝かしつけるベッドを、ある会社が開発したという(NHK朝のニュース)。親の負担を軽減し、家族の団欒の時間などを確保できるようにするのだという触れ込み。

なんということか。

唯一の意思表現である泣くという行為に応えてくれるのが機械では、一体子供の母親に対する愛情がちゃんと育つだろうかという懸念を、この会社の人々は少しも持たなかったのだろうか。
どんなに疲れ果てていても眠くても明日の仕事が心配でも、自分を頼らなければ生きていけない小さなわが子の要求にだけは応える、それが親の愛情だと、考えなかったのだろうか。そうやって苦労しながら育てたからこそ成長を心から喜べるという経験を、この人たちは誰もしていないのだろうか。

洗濯や食器洗いを機械にさせることと、母親が赤ちゃんを抱くことを同列に考える精神構造が信じられない。

子供が小さい頃、逃げ出して別室で寝ていたぼくには、本当は発言資格はないのかもしれない。しかし、毎晩毎晩わが子を抱いてなんとか寝かしつけた我が家の二世代の女性も、このベッドには大いに憤慨していた。

Tuesday, September 19, 2006

Googleと日本語

いつのまにか、グーグルの機能がどんどん増えている。
最近使い始めた中で一番気に入っているのはpersonalized homepage。メールといくつかのニュースサイトを並べているだけだが、かなり便利だ。
ただし、元々英語版で開発されたものを日本語にも適用させているためか、変なことも起きる。例えば、Google Newsを見られるようにしているのだが、言語を英語に切り替えると、日本版Google Newsが勝手に米国版になってしまう(当然内容も違う)。ロイターのニュースではそんなことはなくて、英語版、日本語版それぞれのニュースを一画面に表示させることができる。
それから、英語版にはタブ機能があるので、一部のニュースは別タブに移したのだが、まだタブに対応していない日本語版に替えると、(当然といえば当然だが)そのニュースも元のタブに戻ってしまう。

アラート機能も使っており、登録したキーワード関連のニュースがあったことがすぐ分かる。ただ、これも、英語のニュースが中心で、日本のネットにニュースが出てもあまり現れてこない。

日米差で一番がっかりするのはカレンダー機能。評価が高いので試してみたいのだが、outlookからの取り込みがうまくいかない。各カラムのインデックスが英語でないと読み込めないらしい。いずれは解決するのだろうが。
そういえば、yahooでも、英語版でカレンダーが使えるようになってから日本語版で使えるようになるまでには結構時間がかかったように思う。
ネットの世界ではなんといっても英語ということを、いやでも思い知らされる。

話は飛ぶが、「はてな」の近藤社長は、日本での成功に安住することをよしとせず、グローバル企業を目指してシリコンバレーに移ったとのこと。是非、日本語でも英語でも同様に使えるIT環境作りに取り組んでほしいものだ。

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偶然にも、これを書いたまさにその日に、カレンダーは日本語対応になった。outlookからcsvにエクスポートしたものを難なくインポート。
実際には、カレンダーについてはzero3とPCで同期している今のやり方に満足しているので、どこでもネット接続ができるようにならない限りグーグルカレンダーを使うことはないだろうが、バックアップ用には使える。あとは、共有用としてか。

Sunday, September 17, 2006

トラックバック

これまでトラックバックを使ったことがなかった。というより、仕組みもよく分かってなかった。
以前から、自分の書くものはできるだけ一箇所にまとめておきたい、一方で読む側からすればテーマごとに色んな人の書いたものが集まっていた方がいい、とは思っていたが、トラックバックを使えばほぼこれを両立させられると気づいたのは比較的最近。IT感性がだいぶ低下している。

気づいた以上はすぐやってみたかったのだが、たちまち壁にぶつかった。ここbloggerでは対応していないのだという。天下のGoogleが運営しているというのにどういうわけだ?

しかし、ITの世界というのは大したものだ。他所のblogサイトにちょっかいを出して、トラックバックに対応できるようにしてしまうサイトまであった。

解説が英語だけ、という以上に概念的な理解不足もあって、少してこずったけれど、なんとか成功。
わが初トラックバックはlivedoorグルメのヒロ チェントロに送った。ただし、ミス付き。タイトルをHroとしてしまった。訂正は効かないらしい。
commenting and trackback have been added to this blog.

Sunday, September 03, 2006

ヒロ チェントロ

白を基調とした、颯爽としたレストラン。テーブルの間隔は狭いのだが、狭苦しく感じない。
試みた5000円のランチは、アンティパストからデザートまで十分に満足のいくものだった。
食後の用件のため、ワインが飲めなかったのだけが残念。

Monday, August 21, 2006

ベストセラー

ベストセラーをあまり読まない。自分の心理を分析すると、みんなが読んでいるから読まなくてはみたいな動機は格好が悪い、ということになるのだろう。考えてみればくだらない話なのだが、なかなか気持ちは変わらない。

それが、珍しく、先日まとめて3冊買った。図書カードを貰ったからという言い訳を自分にしつつなのだが。
結果は、3冊中2冊は読んでよかった。読むべき本だった。1冊は、読まなくてもよかった。

読んでよかったのは、『国家の品格』と『千円札は拾うな』。読まなくてもよかったのは『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』。

『国家の品格』で藤原氏が言っていることには、ほぼ全面的に共感した。もともと考えていたことに一致したことも多少あるが、大部分は、うまく考えがまとまらなかったことについて、見事に言ってもらって有難かった。論理の権化とも言うべき数学者が、論理以前を問題にすることに説得力がある。論理そのものについても、長いステップの論理を人間は胡散臭く感じるから短いステップに引かれてしまう、しかし、それも実は危険だ、という指摘など、大いに頷いた。それにしても、はっきり物を言う人だ。

『千円札は拾うな。』は、そこまではできないよ、ということが多いのだが、ああ、そういう発想をすべきなんだなと教えられることが多々あった。例えば、残業はするな、週休3日にしろ、そうなると今までのやり方ではできなくなるから新しい仕事のやり方を考えるようになる、とか、優秀な部下にはあまり仕事をさせず新しいことに取り組ませろとか。これで著者が、宣言どおり40億円のビジネスを捨てて100億円の新たな仕事を創造できたら、信奉することにしよう。

さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』は、無意味な本ではない。さおだけ屋が潰れない理由の解明を初め、経営に関するいくつかの指摘は面白かった。ただ、読む時間に見合うだけの中身はない。まして、これで会計学への第一歩になるかというと相当に疑わしい。出版社サイドがリードして作った本かなという気がする。


ベストセラーと言えば、まだ数万部段階の時に読んだ『病気にならない生き方』がミリオンセラーになったらしい。こうなると、食品業界への影響も多少は出るのだろうか。ミラクル・エンザイムなどの仮説に基づくもので、科学的検証に耐えられるのかは分からないが、少なくとも、毎日水を2リットル飲むようになり牛乳をやめてしまった自分の体調はなかなか良いから、日本全体でもミネラルウォーターの売り上げが伸び牛乳の売り上げが落ちるかも!?。

Thursday, August 17, 2006

Last.fm

音楽の好みはその人の何たるかを表す結構重要な要素である、また、音楽の好みが同じ者同士は気が合う可能性が高い、少なくとも話のきっかけはつかみやすい、という考え方は今日では一般的なのだろう。プロフィールに音楽の好みを書くように なっているブログサイトは多いし、Livejournalなどでは、今何を聞いている、という書き込みがフォーマット化されている。

この考え方にたってユーザーを引き付けようとするサイトの最先端がLast.fmだと言っていい。
なんと、曲名を自分で打ち込むまでもなく、ただ音楽を聴いていれば、今何を聴いているかがサイトに自動登録されるし、今週誰の曲を一番聴いたかレーティングも勝手にしてくれる。「この曲が好きだ」というマーキングとか、音楽についてのコメントなど、少し詳しい情報は自分で打ち込むようになっているが、簡単なことだったら全く手を使わなくてもこのサイトは自分の音楽の好みを世界に向けて発信してくれてしまう。この仕組みさえできれば、あなたと同じような音楽の好みを持っているのはこの人です、と示すことなどこれまでのSNSで開発された技術を使えばたやすいことだ。

自分の活動を常時モニターされているという捉え方をすれば、これは大変なことの筈なのだが、音楽という範囲の中ではあまり抵抗感がないことには我ながら驚いた。これが、例えば、「今見ているもの」だったりすると、世界中に公表されて恥じない目の動きをしているか、全く自信がない。まあ、音楽でも、こんなもの聴くのかと思われたくないものも少しはあるが。(そのときは、自動登録機能を停止すればいい)

その抵抗さえなければ、Last.fmが提供してくれることに対してはポジティブな驚きしかない。今、この瞬間に、Cesaria Evoraを聴いている世界の中の誰かを教えてくれるなんて、1年前にだって想像もできなかったことだ。

このようなことが可能になった一つの要因は、明らかにデジタル化だろう。音楽が一番デジタル化しやすかったということだ。今食べているものの自動登録なんて、どう考えても無理そうだ。

もう一つの要因は、音楽がパッケージ化されているということ。そして、ほぼその延長上のことだが、パッケージに名前がつけられているということ。Last.fmは、音の流れを分析して曲名やアーティスト名を判断しているわけではない。CDからiTunesに曲を取り込むと、たいていの場合曲名やアーティスト名も自動的に入力される。Last.fmはその情報を使っているにすぎない。

音楽以外でこのようなことが可能なのは映像だが、映像版のLast.theaterはそう簡単に成功しないような気がする。一つの問題はパッケージのボリュームが大きいから、そもそもiTunesのようにばんばんPCには取り込めない。また、映画一本を見るには時間がかかるから、「今これを見ています」情報がなかなか更新されない。音楽なら、知り合いの動きを見ていて、「お、今度はこれか」、「マリア・カラスの後にビリー・ホリデイを聴くとは変な奴だな」というようなライブ感があって楽しいが、映画ではこうはいかない。

もっと大きな問題は、パッケージ化された映像を見ることは、嗜好の伴う視覚経験の中のごく小さな一部としか我々が思わないことだろう。今見ているDVDはあなたの視覚的な嗜好を相当程度示していると言われたら、かなり抵抗があるはずだ。音楽も聴覚経験のごく一部でしかないが、嗜好を示す上では代表的な位置を占めると言われてもさほどの違和感はない。
(意識的な聴覚経験の非常に多くの部分である言葉の聴覚は、音楽とは全く異種の経験として切り離されて専ら記号処理の方に区分され、嗜好が云々されるのは音楽のような聴覚経験に限られるからなのだろう。)

Friday, August 11, 2006

Cesária Évora

時々飲みに行く洋風居酒屋TのBGMは、肩の力が抜けたラテン系が多く、つい気持ちよく飲みすぎる。有線かと思ったら、マスターが自分で選曲してCDに焼いているとのこと。
先日も、不思議な心地よさの曲がかかっていた。「誰が歌ってるの?」と聞いたところ、Cesária Évoraの名を教えてくれた。
それ以上は尋ねることもなく、ブラジルかカリブ海のどこかの歌手かと思ったが、後でwebで調べるとアフリカのケープ・ヴェルデ諸島という所の歌手だという。
http://www.caboverde.com/evora/evora.htm

素面で聴くと、これは大変な歌手だ。今まで自分の好きな女性歌手としては、Billie HolidayとMaria Callasを挙げてきたが、そこに一人加えることになるだろう。

本当に不思議な声。柔らかいような強いような。曲によっても随分違う。
比較的単純なリズムにゆったりと乗っていて、気楽に聴けるのだが、おそらく失恋の歌だったり、つらい経験や民族の歴史に触れる歌だったりするのだろうという気がする。底抜けの明るさにならない、何か悲しみのエッセンスのようなものが底に流れている。
Billie Holidayのトーチソングに通じるものを感じる。

Last.fmに記載。

Saturday, August 05, 2006

Marvin Minsky

ミンスキーの"Interior Grounding, Reflection, and Self-Consciousness"を読んだ。

ミンスキー健在!
AIは夢か幻だったように見る風潮もあるが、ミンスキーは微塵も揺らいでいない。脳という複雑極まりないものの機能を、あくまでもphysicalに説明しようと試み続けている。

彼に言わせれば、「意識」のような言葉は、まだ説明できないものを押し込めるスーツケースのような言葉だということになる。
「赤さ」や「甘さ」の感覚についても、physical termsでは説明できないという考え方に真っ向から反論する。ミンスキーによれば、それらは、basicでirreducibleなのではなく、それらの感覚を生み出す脳の働き方について、我々がまだよく分かっていないだけなのだ。感覚は単純なものだという捉え方は誤りで、脳内の様々な活動が複合して生まれるものだと彼は見る。

You look at a color and see that it's Red. Something itches your ear and you know where to scratch. Then, so far as you can tell, that's all there seems to be to it; you recognize that experience—and nothing like "thinking" seems to intervene. Perhaps this is what leads some people to think that the qualities of such sensations are so basic and irreducible that they will always remain inexplicable.

However, I prefer to take the opposite view—that what we call sensations are complex reflective activities. They sometimes involve extensive cascades in which some parts of the brain are affected by signals whose origins we cannot detect—and therefore, we find them hard to explain. So, I see no exceptional mystery here: we simply don't yet know enough about what is actually happening in our brains.

それにしても、Emotion Machineはいつ出版されるのだろう。draftが出てから2年ぐらいたっているんじゃないだろうか。

Saturday, July 29, 2006

Billie Holiday

今日は久々に100%弛緩。軽い雑誌を読んだり昼寝したり、iTunesにまとめてCDから取り込みながらPC相手に碁を打ったり。
iTunesにはBillie Holidayを10枚インポート。コモドアのコンプリート2枚と、CBS/SONYのコンプリート8枚。以前に入れておいたのと合わせて、これで大体ビリーホリデイの好きな曲ははいったろう。一時期、All of MeとI Cover the Water frontがはいってるCBSの8枚目ばかり聴いていたが、他の7枚も実にいい。Billieは暗いばかりじゃない。
このころのLester Youngもいいなあ。

Last.fmに記載

Wednesday, July 26, 2006

Thelonious

昨日久々に聞いたモンクがよかったので、ここに少し書こうと思っていたのだが、偶然、Last.fmというサイトを見つけたので、そちらに書くことにした。

なんでも書くことを前提にした総合型ブログと、音楽中心、本中心などの専門型ブログの使い分け、悩むところだ。

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(やはりこちらにも書いておく)

昨夜、行きつけのジャズバーで、先客が「”煙が目にしみる”をピアノで」というなかなか粋なリクエストをした。
マスター、棚からどのレコードを引っ張り出すのかなと見ていたら、Monkだった。Monkは久しぶり。
1曲目の'Round About Midnight'を数小節聞いただけでもうほとんど恍惚状態。なんたる天才!こんなに少ない音なのに、思いもよらない響きの連続。この曲の演奏としては、Milesのものと双璧。

Tuesday, July 11, 2006

Elis

MP3ならW-ZERO3付属のメディアプレイヤーでも聴けるんだからと我慢してきたが、結局買ってしまった。iPod。60G。
さすが、よくできてますねえ。デザインのよさがそのまま使い勝手のよさに結びついている。箱から出してまず電源スイッチを探してしまったが、それだけでボタン一つ使うのは無駄、デザイン上も美しくないという思想。丸いところのどこを押してもいいというのが答。次に探したのはボリュームだが、息子が言ってたことを思い出して解決。指で円を描けばいいのだった。出っ張りゼロ思想の貫徹はお見事。

そのiPodに少しずつ入れている曲の中で、今よく聴くのがElis ReginaのElis[1974]。この声の強さはどうだろう!
録音時29歳。この歳にして既に、人生には少しばかりの喜びと、余りにも多くの悲しみがあることを胸に深く刻み、その上で、俯かずに生きていくという揺るぎない意志を持った女の声、とでも言おうか。
この声でこそという佳曲が続く。Maria Rosaが特に好きだ。

Tuesday, July 04, 2006

ラテン、あるいはアドリブ

アルゼンチンに続いてブラジルまでまさかの敗退で、ワールドカップに対する興味がだいぶ醒めてしまった。(まあ、まだ見るだろうけれど。)
南米のチームは、強さの質が全然違うのだと思う。え、そこにパスを通すか?という呆れるような所にパスすると、そこにちゃんと受ける選手が来ている。誰もここでシュートなんて考えそうもないタイミングでシュートを打つ。みんなの意識が前に向いているときにさっとヒールで後ろに出す。

サッカーについて何も知らないから的外れかもしれないが、ラテンのサッカーはジャズのアドリブによく似ていると思う。誰も考えてもみなかったフレーズが突然飛び出すのが、アドリブの醍醐味だ。

コンピュータやロボットの技術が発達して、人間チーム対ロボットチームのサッカーが実現したとする。ロボットチームにヨーロッパのサッカーを教えることはできても、ブラジルやアルゼンチンのサッカーを教えることは当分できないのではないか。(チャーリー・パーカーのアドリブや、羽生善治の将棋同様に。)
そして、ロボットに勝てる人類最後のチームはラテン連合なのではないか。

そのラテン連合でさえも、ついにロボットチームに敗れる時が来るのだろうか。カスパロフがディープ・ブルーに敗れてしまったように。
そうなったら、ぼくはもうサッカーは見ないだろうな。

Saturday, July 01, 2006

イケア

先日、船橋のイケアを見てきた。

印象の第一は、売り方がうまいということ。
安い割にセンスがいいように見える。実際には、このなかの一点だけを取り出してホームセンターに置いたら、目立ってコストパフォーマンスが高いということはないだろうと思う。
それがこの店で見るとおしゃれに見えるのは、全体の統一感から来る。これは、単なる小売でなく、生産部門から一貫してイケアがコントロールしているから可能なこと。全てがイケアのデザイナーによってデザインされているからだ。
2Fのショールーム(といっても相当広い)には順路が設定されている。この規模で、順路に従って歩くのはかなり時間がかかるが、全く苦にならない。目的買いの客には不便だろうが、見ること自体を楽しむならば実によくできている。コーナーの区分はされているのだが、単調にならない。ポプリとか蝋燭とかが繰り返し置かれているのも、そのための工夫の一つなのだろう。

第二は、コストを下げる努力が徹底していること。
レジ以外はほとんどセルフサービス。大きな商品のラッピングも自分でできるようにしてある。なんといっても圧倒的なのは、1Fの組立家具の売り場、というか倉庫兼売り場。ショールームで見た家具のパーツが箱に入って、3階分は優にある天井まで積み上げられている。そのエリアだけでも運動会ができそうな広さ。これなら、規模の利益は大いに享受できるだろうし、物流コストもかなり節約できるだろう。ホームセンター並みの価格で売っている分には、高収益が確保できそう。もちろん、売れることが前提だが、平日でもかなりの客数だったから、当面は心配ないだろう。

小さな子連れの家族や、若い夫婦が多かった。この価格でそこそこおしゃれな物が買えるとなれば、彼らにはありがたい店だ。
ユニクロの家具版みたいなもので、イケアの家具ばかりでは、居心地は悪くなくても個性が光ることはなさそうだから、彼らがいつまでこればかり買うとは思えないが、若い世代の需要が常にあることも間違いない。
イケア上陸を恐れるとすれば、高級品中心の家具店ではなく、ホームセンターの家具部門か。

Tuesday, June 27, 2006

NHKニュース

NHKの朝のニュースにはこれまでも不満を持っていた。世の中が緊迫している時に、どうして視聴者の撮影した暢気な日常にこんなに時間を割くのか、一つ一つのニュースの掘り下げ方が余りに浅薄じゃないか、等々。

今朝のテレビ(5時台、6時台)を見たら、不満どころじゃない。
ニュースをやっていない!

BSも総合もサッカーというのはいくらなんでもひどい。高校野球のときのように、教育テレビをうまく使うとか、方法はあるだろうに。

先日、カナダ出身で今は日本に住むJと話したら、ニュースのトップがサッカーだなんてcrazyだと言っていたが、ニュースがないのを知ったらなんと言うだろう。

Friday, June 23, 2006

横綱、ありがとうございました。

前々回のブログ、頭に血が上ったとはいえ馬鹿なことを書いたものだ。ブラジルが「こどものボール蹴り」だと?!
早起きは三文の得。こういう意識の持ちようでは永遠にブラジルには勝てないということを思い知った。

横綱と平幕、いや横綱と十両ぐらいの差があるんじゃなかろうか。
彼我の実力についてこのような客観的な認識をし、ワールドカップという最高の舞台で胸を借りられるだけで幸せであるという謙虚な思いで戦うべき相手であった。

前半はよく健闘したと思うし、玉田のシュートは今大会日本チーム初の痛快なシーンだった。横綱も、ほう多少はやるな、ぐらいに思ってくれたかも知れない。
でも、その後は、格の違いをまざまざと見せ付けられた。
後半途中からは、練習モードに切り替わったブラジルに対してさえ何も為す術がなく、士気を失ったかに見えたが、あれでも、恐らく精一杯やっていたのだと思う。十両の力士が横綱と対戦して全く相撲を取らせてもらえないような状況だったのだろう。

悔しいという言葉が選手から出たが、おこがましい。横綱に負けた十両がそんなこと言うわけない。サッカーとはどういうものか教えていただきありがとうございました、と言わなくちゃ。

Monday, June 19, 2006

内藤礼/茂木健一郎

茂木健一郎のことは、彼がイギリスにいたころから気になっている。何かやってくれそうな期待をずっと持っている。クオリアを打ち出したのはなかなかのヒットだと思う。ただ、まだホームランとは言えないのではないかと思っている。

音楽にも美術にも文学にも並々ならぬ関心を持つ彼の態度は正しいと思う。そうでなければ本当の脳科学などできるわけないと思う。多くの脳科学者のように、ごく狭い領域を深く掘っても、探り当てられることは極めて限定的だろうと思う。
一方で、ここまで関心領域を広く持ってしまったら、一つの理論をまとめあげるのは大変なことだろうとも思う。

さはさりながら。
今朝の日経文化欄で、茂木が内藤礼を取り上げていたのは嬉しかった。
かつて、佐賀町エキジビットスペースで内藤の作品の中に潜り込み、一人だけであの世界に浸った数分間が、ぼくのアート体験の中でも指折りの貴重な時間だったことを、あらためて思い出した。
茂木のように「ぞっとする」ことはなかったが、特別な感覚だった。手のひらに触れる柔らかな生地だけでなく空間全体から感じるぬくもり。まどろみを誘いそうなその感覚の一方で、か細い糸、小さなオブジェクトがもたらす微かな緊張。閉じられているのに恐れはなく、一人なのに孤独感はない。

こういう体験をも包摂できるような脳科学、いや、恐らくこういう体験の解明を中心に位置付けてこそ全体が構築されるような脳科学、茂木が目指しているのはそういうものなのではないか。

(内藤礼が97年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表になったとき、素晴らしい人選だと思った。その割にあちらでの高い評価は聞こえて来ず、海外の専門家の感性は彼女に追いついていないのかと思ったが、実際は、一回一人限定方式のため作品を見られた人が少なかったという事情が大きかったようだ。巨大展覧会向きではなかったということか。残念ではある。)

サッカー

ワールドカップの日本対クロアチア戦については、恐らく何千というブログが書かれているのだろうな。それらに出てこないような独自の視点などぼくにはあるわけもないが、やっぱり一言言いたい。
スカッとしない!
なぜ、あそこで決められない!
朝、アルゼンチン対セルビアモンテネグロなんかを見ちゃったから、思いが倍加。なんたる華麗さ!軽妙さ!切れの鋭さ!
あの半分でもいい、3分の1でもいいから、なんて期待しちゃいけないんだよな。きっと彼らがやっているのは別のスポーツなんだ。

そもそも、考えてみれば選手も解説陣も、勝つことは容易ではないという意識でゲームに臨んでいたと思う。「最後まで諦めない」なんて言葉は、楽に勝てると思ってたら出てこない。
実際には、互角だった(ちょっとひいき目?)んだから、「クロアチアなんてちょろいと思わず、気を引き締めて行こう!」って考えてたら結果は違ったかも。まあ、半分やけくそで言ってますが。

ここに来て、オーストラリアの3点目がずしんと重い。あれがなければ、ブラジルに1-0でも、決勝Tに残れるかもしれなかったのに。1点なら、何かの間違いで取れるかもしれないんだから。2点はどう転んでも無理だよなあ。

(負け以外考えられない意識になっちゃってる。もし、選手もそうだったら、本当にダメ。ここはお馬鹿になって、ブラジルサッカーなんて子供のボール蹴りじゃん、とか思ってほしい!)

Wednesday, June 14, 2006

心理、生理

サッカーは滅多に見ないがワールドカップは別。ここまで凄いと90分飽きない。

ところで、対オーストラリア戦の日本の崩れ方は、こんなこともあるのかと思うぐらいドラマティック(良し悪しは別に)だった。
川口の素晴らしいセーブで勝利を確信したであろう日本は、わずかに気が緩んだ、そこを突かれて同点になってしまい、一瞬虚脱状態に陥った、そこをまた突かれた。あの数分を描くと、こんな風に心の描写ばかりになる。だから、ドラマ。

一方、そのあとのブラジル対クロアチア戦だが、素人目には、終盤勝利を確信したブラジルが、少し力を抜いたように見えた。しかし、こちらは負けない。

力が抜けたのと、力を抜いたのの差?
日本の場合は川口の美技というきっかけがあって、選手の心理が極端に変化した。対してブラジルは、特にきっかけがあったわけではないから、そういう極端な変化はない。その差?

そもそも、こういうことを心理で説明しようということ自体妥当なのか?

考えてみれば、走り続けて筋肉が疲労し動きが鈍くなるのは生理で、信じがたいことが起こったため呆然として動きが鈍くなるのは心理、というような分け方自体それほど自明なのかどうか。
運動の結果心拍が増すのは生理、スピーチをする前に緊張して心拍が増すのは心理、とか、例は色々あるが。

後者の例で言うと、脳が心拍を増やすような出力を行う過程はたぶん同様なのだ。違うのは入力。一方は血中の酸素濃度とかなんとか酸のようなものを何らかの神経系の働きで感知する。他方は自分が置かれている状況という身体外のことを、単純な神経系ではなく、複雑な脳活動によって、感知というより理解する。

いや、身体外のことについての入力かどうかは重要ではない。気温が高くて汗をかくのは、身体外の状況が入力された結果であっても生理と言われるのだから。

となると、入力を処理する過程の違いで心理と生理は区別されるのだろうか。

日本チームの動きが鈍くなったのには、実はそれ以前の疲労の蓄積という要因も大きく働いているはずだ。それが、一つのきっかけで、急に顕在化した。そのきっかけ以前は、疲労を感知するセンサーからの信号がブロックされていたのかもしれない。
逆に、オーストラリアチームは、追いついた途端に動きが軽快になった。きっかけ以後、疲労を感知するセンサーからの信号がブロックされたのかもしれない。
疲労を感知するのは生理的過程で、それをブロックするのは心理的過程?

ちょっと飛躍だが、結局、生理か心理かは、入力の源が物理的あるいは化学的等のいわゆる科学的な方法で測定できるものか否かの差ではないか。

と書いた途端に別例が思い浮かんでしまった。「あの人のことは生理的に好きになれない」と言うことがあるじゃないか。好き嫌いは心理そのものなのに、生理を持ち出すのは、心理をうまく説明できないからとしか考えられない。
となると、生理で説明できないのが心理で、心理で説明できないのが生理?いやはや。
異性ににこっとされて赤くなる、これは心理?生理?

Sunday, June 11, 2006

場(2)

場には個性がある。
その個性が似ている場もあれば、大きく異なる場もある。

例えば、先日の割烹ではゆとりのなさと感じられたカウンターとテーブルの間隔、それゆえに生じたスタッフの窮屈な動きも、居酒屋なら問題にならない。隣の客と肘が触れるぐらいの狭さが、居酒屋の居心地のよさにつながる。スタッフが「すみませーん、通ります」などと言っているのが店の活気にさえなる。

どちらの場が優れているとか劣っているとかの比較は無意味である。

ただし、経済価値は異なる。たいていの場合、品のよい割烹は、賑やかな居酒屋より高い。
これは、原価の差に起因するのだろう。カウンターとテーブルの間隔をあけるにも、スタッフを増やして女将の顔にいつも微笑を浮かばせるにも、コストがかかる。器、調度、エントランスのデザイン、全て割烹は居酒屋よりコストがかかる。料亭はもっとかかる。
ちゃんとした京懐石を味わうには少なくとも1万5千円は必要だと、ネットのどこかに誰かが書いていたが、そうだろうなという感じはする。(ちなみに、例にとりあげた祇園の割烹は飲み物を加えても1万円しなかった。1万円未満で得られる食事の場の満足度としてはあの辺が限界かもしれない。)

特殊例も考えられなくはない。毎日毎日料亭で食事をするのが仕事のような人が、お金を出せば今日は居酒屋にしてあげると言われれば、料亭並でも払うかも。これは、自由を買ってるのであり、場の値段じゃないか。

場の価値を考える上で欠かせない例が茶の世界だろう。これは、次回。

圧縮(4)

色の場合の問題は、連続的な変化であるため、一つの色と他の色の差異が必ずしも明確ではないということである。
実はこれは、音声にも元来あったはずの問題だ。我々が例えば「こ」という音であると認識する音声には、微妙に異なる無限のヴァリエーションがある。ただ、それらは、他の音声と比較すれば類似度が高く、また例えば「さ」という音と認識される音声群とは音声空間全体の中で離れた位置にある音声群である。

色についても、色全体という無限の要素を持った集合から、有限の、例えば、50個の色群を選べば、これを言語における音声同様に用いることが可能だろう。

どうも話が当初考えていたことから離れてきてしまった。楽曲を一つの色に圧縮するというとき、実は、その楽曲と色との間には、何か共通の特性があり(例えば聴く者、見る者の気持ちを明るくする)、従って、一つの色に圧縮しても、元来の楽曲の特性は、極めて限定的ではあるにしても保持される、といったことを想定していた。例えば、モーツァルトのトルコ行進曲を圧縮すれば明るく澄んだ色、シェーンベルクの浄められた夜は暗く濁りを帯びた色、などと。

言語における音声のように色を用いる場合は、表すべき対象と色との間にこういう関係は不要だ。

少し話を飛ばしてしまうが、「かたじけない」という音声の組み合わせは、元来、かたじけないという思いとは何の関係もない。にもかかわらず、「かたじけない」という言葉が、かたじけないという思いを表しうるのは、言語空間全体が、「思い空間」全体と対応関係を持っているからだ。一つの言葉しかなかったら、言葉で思いを伝えることはできない。「かたじけない」も「申し訳ない」もあり、言語空間におけるそれらの言葉の距離が、「憎い」との距離よりは近い、そういった、言葉同士の関係全体が、思い同士の関係と対応を持つが故に、言葉で思いを伝えることができる。

圧縮というなら、言語空間全体が、思い空間全体の圧縮になっているということか。
同様に、特定の色群を選び、思い空間との対応関係を設定することはできるだろう。色の全体というものは空間的構造を持っている。つまり、個々の色を3次元空間にプロットし、色同士の距離の遠近を述べることも不可能ではない。前回「圧縮(3)」で述べたことは、特定の色群を、思い空間に対応させる上で有利に働くのではないか、という仮説に置き換えるべきだろう。

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こういうことは、言語学なり記号学で初歩的な議論として論じ尽くされているのかもしれない。不勉強をさらけだしてしまった。
「圧縮」というタイトルも適当ではなかったが、別タイトルを考えるのも面倒なので、このままにしておく。

Friday, June 09, 2006

圧縮(3)

一つの楽曲という、変化に富み、かつ、他の楽曲とは明確に区別される特徴を備えたものを、一つの色で表現しようなどというのは乱暴すぎる発想のように思える。

しかし、考えてみれば、我々の言語は、人間の感情のような複雑なものでさえ、数文字の言葉で表現している。
例えば、「かたじけない」という言葉が表している思いは、この思いを抱く人Aと、その思いの対象となっている人Bとの間に、様々なできごとがあって生まれるものであり、この言葉を聞いた我々は、AとBとの間にあったであろうことを多少なりとも想像し得る。
また、この言葉を用いるということ自体から、我々はAについて何がしかのことを知り得る(Aは幼児ではない、Aは暴君ではない、等)。
たった5文字に圧縮された言葉で、そのような情報を提供できるということである。
「かたじけない」という5文字の代わりに、ある特定の色を用いることは、情報の圧縮という点ではそれほど差がない。
人間の感情を色で表現することが可能ならば、楽曲を色で表現することも可能だろう。

色の方が優れている点もある。
例えば、「かたじけない」と「申し訳ない」。この二つの言葉が使われる状況は、異なるものではあるが、「かたじけない」と「憎い」よりは類似性の高い状況だろう。二つの言葉の類似性(使われる状況の類似性と概ね同意だろう)を表現する上で、色は便利だ。色相には、遠近関係があるからだ。
楽曲で言えば、同じ作曲家の曲を表す色は近い色に、また、影響関係の強い作曲家同士の曲も近い色になるような、色の選定ができるはずだ。

Saturday, June 03, 2006

「ウェブ進化論」

遅ればせながら、梅田望夫の「ウェブ進化論」を読み終えた。
フォーサイト誌の連載で梅田氏の物事の見方にはいつも教えられていたが、今回まとまった形で読み、ネット社会の将来についてかつてなく視界が開けたような気がした。
オープンソースやロングテールについての理解も深まったが、なんといっても、グーグルがやっている「あちら側」のことがどういうことなのか、それによって世の中がどれほど変わるのか、納得できたことが最大の収穫だ。
一方で、グーグルの目指すことが本当に可能なのか、別の視点から考えさせてもくれた。
それを可能にしたのが、梅田氏が引いた将棋の羽生名人の言葉、「高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きている」。梅田氏はグーグルの価値を極めて高く評価しているが(おそらく日本で最も高く)、一方で、無批判ではなく、冷静に技術の全体像を見ている。

現在のコンピュータで高速化できる部分の先で、名人クラスの脳は働いている。その脳の働き方については今もって全く定式化できていないから、名人に到れぬ脳は渋滞してしまうということだろう。

グーグルが創造した世界最大のコンピュータは、今現在、世界中の情報を対象としてプログラムに従った自動処理をしている。それによる成果は途方もなく大きいが、それでもなお、その先に限界があるのではないか。梅田氏が、グーグルと羽生名人の両方をとりあげたのは、そういう予感を梅田氏自身否定しきれないからだろう。

かつて、コンピュータによる自動翻訳が発達すれば翻訳家や通訳は不要になるのではないかと考えた技術者が大勢いた。その後自動翻訳技術は大きく進歩したが、まだ、翻訳家も通訳も仕事を失っていない。私は、今後も自動翻訳が完全に人に置き換わることはないと思っている。レベルの高い翻訳は、双方の言語が根ざす人々の生活、文化を深く知らないとできない。生活していないコンピュータに、これはできないはずだ。
名人とコンピュータの将棋思考の差は、実は生活経験の有無だといっては短絡だが、何かそういう、人間と機械の根本的な差異に根ざすものだとは思う。
グーグルの限界も、そこから出てくるような気がする。

Thursday, June 01, 2006

場(1)

「場の雰囲気」、「場違い」、「場数を踏む」などというときの「場」という概念は、非常に重要な概念だと思う。
場は空間と密接に関連するが、物質を取り去っても存在すると観念される抽象的な空間ではない。場は事象と一体である。事象は当然ながら時間の中で生起するものである。つまり、場は、空間的なものと時間的なもの両方の要素を含んでいる。
我々は、空間、時間という概念を持っているがゆえに、場という概念を空間という概念、時間といういう概念を用いて説明しようと考えてしまうが、本来、場は、空間概念、時間概念に還元すべきものではないように思える。
では、空間概念、時間概念を用いずに、どう場を説明するか。

哲学的に考えるとなかなかの難問であるが、我々は(少なくとも日本語を用いる者は)、日常的に場という言葉を用い、理解しあっているのだから、共通理解の基盤はあるに違いない。

こういう問題は、実例に即して考えた方がいいかもしれない。
5月初旬に祇園のあるモダンな割烹で食事をしたのだが、それを例にとってみる。

この割烹、祇園新橋地区の町屋が並んだ表通りから狭い路地を抜けて店に至るのだが、この路地からして既に壁の質感、照明の当て方等に配慮されたものだった。建物や室内のデザイン、部屋から見える坪庭等は、伝統と現代性が調和し、十分に目を楽しませてくれた。料理は一皿一皿しみじみとおいしく、器や盛り付けも見事だった。
しかし、この割烹での食事、満点をつけるにはまだ若干不足を感じた。一つには、カウンター席とテーブル席の間隔がやや狭かったこと。もう一つは、女将の表情にゆとりがなかったこと。

一つ目の問題は、空間に関連するものではあるが、人の動きのない状態、例えば誰もいないカウンターとテーブルに料理を置いた状態で見れば、さほど意識されなかったように思う。意識に上ったのは、3人分のお造りが盛られた大皿をテーブル席のわれわれの方に運ぼうとするスタッフが、カウンター席の後ろを通り抜けるときに体を捻ったときだった。ゆったりした気分でその食事の花とも言える一皿を楽しもうという場に、窮屈さを示す動きは合わないのだ。

二つ目の問題の原因は、客数の割に厨房外のサービススタッフが少なく、結果として女将の負担が過重だったということだろう。時間がない、時間に追われている、という表現もこの状況には使えるから、時間に関連する問題と言えなくもない。しかし、実はこちらも一つ目と同様、ゆったりした気分で食事を楽しむ場にふさわしくない、と捉えるべき問題なのだと思う。

一つ目を空間におけるゆとりのなさ、二つ目を時間におけるゆとりのなさ、と捉えることもできるが、空間、時間に分解せず、どちらも場におけるゆとりのなさなのだと捉える見方が重要なのだ。
仮説だが、脳は、この二つを共通のプロセスで処理しているのではないか。

(続く:続けられるかどうか自信はないが、一応)

Friday, May 26, 2006

圧縮(2)

先日の新聞広告によると、渡辺淳一の「愛の流刑地」が単行本になったらしい。
連載中にこのblogに書いたとおり、あの小説は駄作だと思っているが、単行本は結構売れるのではないか。広告効果もあるだろうし、一気に読めば案外、そこそこ面白いような気もする。
400日を越える期間、毎日少しずつ読むものとしては中身があまりに薄っぺらだが、短時間で読む分にはまあ適当な娯楽作品かもしれない。意外な展開も少しはあるし、エロティックな場面は多いし(というより、そればかりだが)。
濃さばかりを評価するのは、了見が狭いのだろう。

中身が薄いのだから思い切り圧縮して、例えば要約を400字に纏めても元のものと同じ楽しみを提供できるかというと、そうはいかないのだろう。あの形を崩しては、娯楽性を損なうということはあり得る。渡辺先生が自分の作品は大したものなのだと自慢できるとしたら、その点か。

圧縮の最たるものは作品名であるとも言える。「愛の流刑地」。5字で内容を表せという問題の答としては、なかなかのものだ。普通の作家では恥ずかしくてつけそうもないタイトルだから、ユニークということになる。ビジネスセンスがある。
気になるのは、「の」。この「の」の意味は何なのだろう。英語では何と言うのだろうか。考えるとどうもよく分からないのだが、一読したときにはなんとなく分かった気がしてしまう。この辺も、今風ではある。

Tuesday, May 23, 2006

圧縮

昨夜、車を運転しながら、FMでモーツァルトの交響曲第40番を聴いた。「完全」という言葉はこういう音楽のためにあるのではないだろうかと思った。気持ちよく帰宅し、ワインを飲んで、たちまち眠ってしまった。

夜中に目が覚め、色々考えた。実際にはもっと模糊とした考えだったが、今整理してみると次のようなことだ。

40番の4つの楽章の構成が見事であることは、例えば、これを色に置き換え、キャンバス上の4つの色面の構成としても表現できるのではないか。音の群れを色面に変換するそういう規則があるのではないか。

Media Playerなどで音楽を聴くときのPC画面にも、音の変化に連動して色面が動くものがあるが、音の高さ、大きさ、長さについて忠実な変換をするだけでは、4つの楽章の構成というような一段階マクロ(ないしメタ)な事象は表現できない。
楽章内のテーマの構成を、AA'BB'などと表現するやり方がある。この方がマクロになっているが、第一楽章はAA'BB'、第二楽章はAA'BA'と書いたものを見ても、音楽の構成に対するのと同じ感動は全然生まれない。

別の表現で同質(同形?)の感動を生み出す、ということはいったん脇に置いて、楽章の特徴を極力シンプルに表現し、かつ、楽章ごとの違いはちゃんと認識できる、どころか、楽曲ごとの違い、バッハとモーツァルトとベートーベンの違いがちゃんと認識できる、そんな表現はないだろうか。
楽章の平均音程というようなものなら計算できるだろうが、これでは全ての音楽がたかだか100種類ぐらいに分類されてしまう。
1秒か2秒というごく短時間に楽章全体を高速でビュビュッと鳴らしたらどうか。英会話の学習テープで倍速にしても音の高さを変えないものがある、あの技術の応用で。
あるいは、いっそ、ある楽章に含まれる全ての音を同時に鳴らしたらどうか。濁ってしまって、楽曲の違いなど全く分からない?では、音を色に置き換えた上で、色の光として重ねたら?

飛躍するが、田中角栄の人生を100字にして表現しようと思えばできないことはない。その100字と、宮沢喜一の人生を表現した100字は、相当に違ったものだろう。言語というのはなかなか大したものだ。
A4の紙に任意の形を描き一色で塗るだけでも、表現は何億と可能だろう。人生の数に対応するだけの表現が作れるはずだが、みんなが納得できるような変換規則はなかなか見つかるまい。

この辺まで考えて、また眠りに落ちた。

Tuesday, April 25, 2006

去年

(手直し中)

Sunday, April 16, 2006

洋菓子

先週、実においしい洋菓子を続けて頂いた。
こんなにも違うものだとは、驚きだった。

「ツッカベッカライ カヌヤマ」のクッキー。
「レダラッハ」のチョコレート。

Monday, March 20, 2006

「会いたくて」

園まりの「会いたくて」がこんなにいい曲だったとは。

NHKFMのスタジオライブ、浜田真理子の歌、平岡雄一郎のギター。
浜田は芯がピンと張った声で、ヴィブラートをほとんどかけずにすっきりと歌う。園まりの柔らかい声、粘度の高い歌い方とはまるで異質。園の歌も、今でも思い出せるのだから独特の味があったわけだが、現代の風景に合うかは疑問。浜田によって、モダンな恋の歌として見事に蘇った。平岡のギターもうまい。歌詞も、改めて聞くと若い女性の思いがよく出ている。

この曲を再発見し、浜田に歌わせることを思いついたのは、誰なのだろう。浜田自身?
誰であれ、大したものだ。

Monday, February 27, 2006

フィギュアスケート

荒川静香は見事だった。落ち着いていた。前の選手の演技は見ず自分の使う曲を直前まで聞くとか、一つのポーズをきっちり3秒持続させるために「one icecream, two icecream, three icecream」と数えるとか、実によく考えている。NHKの特番で、審査基準変更後、荒川が点の取れる演技とするためにどれだけ苦しんだかを見せていたが、目標達成の手段を一番考え、実践したのが彼女だったのではないか。メダルは意識の外だったように言っているが、点を取ることに対する執念は誰よりも強烈だったように思う。

村主ももっと点が高くてもいいように見えたが、専門家が見ると少しずつ足りないらしい。表現力だけでは点にならない今の審査基準に対応するためには、ドラマとしての流れは多少犠牲にしてでも、点の取れる技を数多く組み込むしかないようだが、村主はドラマを捨て切れなかったのではないか。無論素人考えだが。

プルシェンコを見て考えが変わった。一次元高いところで演技している。ここまでくると、技術と表現の矛盾など解消してしまうのだ。高度な技は、それなくしてはできないドラマ表現のために用いられる、いとも自然に。
音楽だったら、triadと7thしか弾けない演奏家より、9thも自在に弾ける演奏家の方が、優れた表現ができる可能性は高い。
自在という点で、プルシェンコは抜きん出ていた。

国内の競技会が偏差値70台の戦いだとしたら、オリンピックは偏差値80台というところだろうが、プルシェンコは90に達しているのでは。

Thursday, February 23, 2006

左利き

右手指先に痺れがあり、手根管症候群と診断された。手首への注射一本でかなり緩和されたが、まだ少し残っている。
使いすぎも原因の一つになり得るということなので、できるだけ使うまいと決めたのだが、これが難しい。

PCのキーボードは左手のみで打っている。速度低下は我慢するとしても、疲れが困る。両手ブラインドタッチの時と違って一々キーを目で確認しているからだと思う。
シェーバーもある程度までは使えるようになったが、細かいところになると右手のお出まし。
箸は全然使えない。ペンもダメ。

誰か左利き養成ギアでも作ってくれないだろうか。
左手を使えば右脳が開発され感性等の働きが高まる、とまで脳が単純だとは思っていないが、左手使用が脳の刺激になっていることは間違いない。頭がよくなるギアとして売ったら、結構売れるのでは。

Saturday, February 11, 2006

パヴァロッティ

オリンピックの開会式を見て思った、最後はこの人にお任せすればいいのだから、プログラム制作者の悩みは随分緩和されるだろうと。途中多少だれたって、フィナーレは見事に決まるのだから。曲も定番、「誰も寝てはならぬ」でぴったり。放送が夜中になる地域でも寝ないでテレビを見て下さいよというわけだ。

それにしても、なんたる声!

Sunday, February 05, 2006

ノリントンのマイスタージンガー

ロジャー・ノリントン指揮、ロンドン・クラシカル・プレーヤーズの演奏による“ニュルンベルクのマイスタージンガー”を初めて聴いた。
古楽器を用いるとこんな響きになるとは。
山村の爽やかな朝のようとでも言おうか。

ワーグナー本来のコクがないという意見もあるようだし、確かにそうではあるが、野菜ジュースのようなワーグナーもたまにはいい。

     

Monday, January 30, 2006

赤垣屋

丸の内の東京ビル地下1階にある立呑屋。
オープンして2ヶ月半と新しく、また、場所柄、立呑屋としてはなかなか上品な店。
長いカウンターのみ、椅子なし。ケースの中の小鉢に色々な肴。焼き物は目の前で焼いてくれる。
日本酒、焼酎、ワインはもちろん、シャンパンまである。
大阪では有名な店らしい。「2度づけお断り」の揚げ物用ソースなど、大阪風か。

土曜日の3時過ぎという中途半端な時間だったから、客はぽつぽつ。
女性店長、男性の研修生と少し話しながら、芋焼酎2種をお湯割りで飲んだ。
きちんとした、かつ、肩の凝らない対応。
焼き鳥2串、なまこポン酢等を食す。みな旨い。
飲み仲間を誘ってまた来よう。

このビルに入っている飲食店は、値段も手頃で、サラリーマンには有難い店ばかりの感。
丸ビルやOZONEとの棲み分けは十分できそう。

Friday, January 27, 2006

ライブドア

解説を聞いている限りでは、ライブドアが株価を上げるためにやったことの多くは違法であるように思うが、確信があるわけではない。裁判で弁護団がどういう論理を展開するのか見ものだ。

それにしても、仮に違法でないと認められるものがあるとしても、法の抜け穴を使ったということにはなるのだろう。
俄かトレーダーとしては、ライブドア株を買ってなくてよかったというところだ。違法ないし違法ぎりぎりで儲けを企む会社に便乗しようとしていたら、自分が情けなかったろう。もちろん、金銭的損失のショックも甚大だろうが。

実は、ちらっと考えたことがないわけではないのだが、情報を調べるところまでもいかなかった。理由がある。
2年ぐらい前に、ライブドアがポータルサイトとして作っているページを見て、なんだこれは、何の新しさもないじゃないかと思った。その印象が残っていたのだ。
その頃に比べると、最近は随分充実していることも知っていた。前にこのブログに書いたように、マップは立派だし、wikiが使えるのも大したものだ。
ただ、これらも、よそで開発された技術を導入したもので、ライブドアの独創ではない。資金があるとサイトもよくなるんだなとは思ったが、2年前の印象を払拭するほどの評価にはなっていなかった。

現時点での売り上げや利益の水準から見て株価が非常に高い企業というのは、いくらでもある。グーグルなどその典型だろうし、アマゾンもヤフーもソフトバンクもそうだ。ただ、これらの企業には、将来性を期待させるだけのものがある。グーグルだったら、何年も世界のトップを走っている検索技術、巨大なコンピュータ資産、綺羅星のごとき技術者たち、というように。
ライブドアには、期待の根拠となるものがなかった。今回の事件まで、時価総額がいくらかも知らなかったが、どう考えても現在価値にも将来価値にも見合わない。

インターネットはかなり使っているから、ライブドアについては勘が働いたが、知識のない業種の企業だったら、値動きだけで買っていたかもしれない。いい反省の材料になった。

Thursday, January 26, 2006

バッハ「フーガ ロ短調 BWV579」

FMでこの曲を聞きながら、こういう曲こそ一番バッハらしいのかもしれないと思った。

大曲のように全体構成を考える必要もなく、主題もコレルリのものだから、バッハは主題をフーガにすることだけに専念できたわけだ。音楽家が職人から芸術家になる過渡期に生きたバッハは、史上最高のフーガ作曲技術者だったとも言える。他の者にとっては困難であろう和声進行に呻吟することもなく、ゆとりを持って音楽性を追求し得た、そして生まれたのがこの澄み切った佳曲なのではないだろうか。

偉大な西洋音楽ベスト3を選べと言われたら迷わずマタイをその中に入れるが、バッハの好きな曲ベスト10と言われたら、コラール・プレリュードなどとともに、このような曲も入れてみたい。

Wednesday, January 25, 2006

マネー・ゲーム

暮れの休みにデイ・トレーディングを試みた。正直に言って、面白い。実に面白い。

20年以上前に少しだけ株を買ったことがあるが(結果は急落、塩漬け)、当時とは取引環境がまるで違う。ネット証券会社のページにつなぐと、日足どころか分足のグラフが出ているし、何円に何株の売り(買い)注文有りということもすぐ分かる。その会社の業績とか財務のデータもワンクリックで見られる。自分なりの基準で候補をしぼっていく作業も、四季報のページを何度も繰ることなく、指標項目を選んでデータを設定すれば一瞬にしてフィルタリングの結果が示される。
手数料が非常に安くなったことも大きい。一日のうちに何度売買しようと合計約定額が100万円未満なら1000円もかからない。

こうなると、少し試してみるかという気にもなる。乏しいのは資金だが、皮算用をすると、2日に1%の割合で利益を出せば、年間100回複利で回して約2.7倍!10年で2万倍!!100万円が200億円になる。
いくらなんでもそんなにうまく行くわけないと一応考えるが、気分はかなりハイ。9時の始値を確認するとやもたてもいられず3銘柄に指値で買い注文。現在の株価で注文したからすぐ約定。ここからが忙しい。銘柄を切り替えながら「情報更新」ボタンをひたすらクリックして値動きをチェック。全体の動きも重要と俄か勉強をしたので、日経平均も合間に確認。ビギナーズラックというのはあるもので、30分足らずで1銘柄は約2%値上がり。もっといけそうな気もしてくるが、いやいやここで欲張らず決めたとおりに行動するのがビリオネアへの道だと自分に言い聞かせ、売り注文。別の1銘柄は損切予定ラインを間もなく下回ってしまいこれも売り。売ると数秒後にはもう購入資金に使えるので、急いで候補を探して買ったが、また下がり始めた。ここで早くも決断が揺らぐ。損切ラインを越えても売るべきじゃない、この株は絶対上がる、下がったら逆に買うべきだという声が頭の中から聞こえてくる。しかし、資金が足りない。結局、ネット銀行から不足分を入金(これもあっという間にできてしまう)し、追加で買った。確かナンピン買いとかいったはずだが、この方針変更がたまたま当たり、後場で上げて、無事売り抜けた。
結局、1日で、損得合わせて居酒屋の飲み代ぐらいは稼いでしまった。

戦果に大いに満足しつつも、どうもこれは変だという思いが徐々に頭をもたげ始めた。そもそも、こんなにPCの前に貼り付いて目を凝らしていたら体がもたない。会社をやめ、これで生活している人もいるというが、数字だけ操作して所得を得るなんて、まともな仕事とは思えない。
株式売買は成長力のある企業の資本を増強することによって経済成長に貢献することなのだという類の言説は到る所にあるが、これは、そんなものではない。少なくともデイ・トレーディングは単純にギャンブルだ。ギャンブルといってまずければマネー・ゲームだ。
業績やら財務やら経済っぽいことを色々調べているから、何かギャンブルより真っ当なことのように思いそうになったが、そんなことはない。仮に競馬が2時間かかるレースで、走ってる間に馬券を売買できるとしたら、そっくりのゲームになるだろう。事前に調べるのが企業情報かサラブレッドの系統かの違いがあるだけだ。

と整理がつき、やめたかというと、そうはいかないのがゲームの魔力。デイ・トレーディングこそ時間がないから無理だが、ウィークリーでは何度か動かす。ライブドアショックは一時的、日本経済はファンダメンタルズが強いから必ず短期間で回復するとおまじないを唱えていたら、実際上向いてきてにんまりている。
まあ、ビリオネアは200%無理、あてにならない年金を自力で補うのも99%無理で、たまに昼食代が出れば上出来だということは、短期間にしっかり叩き込まれたけれど。

Thursday, December 15, 2005

冬の朝

冬の朝、蛇口をひねるとお湯が出る。わが家でもそれが当たり前になってから随分経つ。
子供の頃は、冬の水は切れるように冷たいものだった。ばしゃばしゃっといい加減に顔を洗うと、それではダメだと叱られたが、一方で、お湯を沸かしてくれた。少し大きくなると、その薬缶を自分で運び、洗面器の水に足してつかった。水道が凍ってしまうこともよくあり、これまた薬缶のお湯を屋外の水道管にかけにいった。

このところ、若年者による、常識では考えられないような犯罪が頻発している。なぜ、小学6年生の女の子をうまく指導できないからといって、殺そうということになってしまうのか、23歳にもなる男が。

飛躍しすぎかもしれないが、冬の朝の水のような、ちょっとつらいけれどみんな我慢し、自分も我慢することを覚えていく、成長過程でのそういう当たり前の経験の不足が、遠因にあるのではないだろうか。親、そして周囲の大人は、子供に対し、小さい時からストレス耐性を身に付けさせるよう、もっと意識すべきなのだと思う。

Wednesday, December 14, 2005

ガジャルド

FMでホセ・マリア・ガジャルド・デル・レイ作曲、ギター演奏の「カリフォルニア組曲」を初めて聞いた。
美しい曲だ。

ガジャルドは、スペイン出身とのこと。
カリフォルニアとスペインといっても、曲には米墨戦争を思い起こさせるような要素は全くないのだが、ぼくの頭の中でこの二つに結びつくのは、戦争を勝利に導いた提督の名前。

13年前だったか、アメリカからCIRとして茨城に来ていた友人の案内で、カリフォルニアを車で旅した。途中モンタレーで、彼が誇らしげにこれを見ろと言ったのが、Sloat Avenueの標識。道路に名を残したスロート提督は、彼の祖先だったのだ。

ガジャルドに戻る。この曲のはいっているCDには、彼が弾くバッハやピアソラの曲もあった。先ほどアマゾンで注文した。

Monday, December 12, 2005

体重感覚?

毎日のように体重計に乗る。健康を気にしてというより、単なる癖。
それで気づいたのだが、測る前に、だいたい今日は何キロという見当がつくのだ。それも、0.2kgか、せいぜい0.4kgぐらいの誤差で(うちの体重計の最小計量単位は0.2kg)。

どうしてこんなことが可能なのか。重力を感じる神経はあるだろうが、それは、その神経の末端付近にかかる重力についてしか捉えていないはず。とすると、脳が、全身の神経から入ってくる重力情報を積算しているのか。まさか。

などとしばしまじめに考えた末の、現時点での仮説。
食べ過ぎたあと、お腹が重いと感じる。あれに近い機能が働いているのではないか。これは、重力感覚とはもしかすると違うかもしれない。例えば、胃・腸周辺の血液中の糖とか脂肪の量についての化学的感覚、あるいは、胃・腸からの圧迫度合いについての皮膚感覚など。
そういう感覚、体感であっても、実際の体重と密接な関係はあるはず。
そしてその体感は、何度も何度も計量しているうちに、例えば68kgのときはこんな感じ(お腹あたりがちょっと軽い)、70kgのときはこんな感じ(お腹あたりがちょっと重い)というふうに、体重の数値と結び付けられて記憶されているのではないか。その記憶中のデータベースを参照することにより、現在の自分の体感を引数として体重が推量される。そんな仕組みではないだろうか。

昨日、今xx.xkgぐらいだなと思ってから、水を500ml程飲んだ。その後体重を測ったら、さっき推定のxx.xkg。つまり0.5kg分外れてしまったわけだが、これも、血中の何かの量についての化学的感覚を出発点として体重を推量しているためと考えれば、説明できるかもしれない。重力感覚と異なり、水を飲んでもこちらの感覚は変わらないわけだから。まあ、単に昨日はいつもより推量の誤差が大きかったのかもしれないが。

こういう研究は、既になされているのだろうか。

Saturday, December 10, 2005

ピーター・バラカン

たまにしかないことだが、土曜日の朝、車を運転する時には、FMでピーター・バラカンのモーニング・サンシャインを聞く。この番組で初めて聞き、好きになった曲は数多い。

今朝は、「音楽がわかる世界地図」という本について、編集した中島ますみさんと語りながら、関連する曲を紹介するという趣向。
世界の楽器の話に絡めてバラカン氏が選んだ曲はどれもよかったが、特に、Ravi ShankarのBangla DhunとRy CooderのYellow Rosesは、CDが欲しくなった。

Ravi Shankarは、コルトレーンが大きな影響を受けたといったことは知っていても、これまでちゃんと聞いたことがなかった。うねうねうねうね旋律が続く。小さな波を繰り返しながらゆるやかな大きな波を形作っていく。これだけなら、音楽はたいていそうじゃないかということになるが、何なのだろう、何かが決定的に違う。音楽学ではどう分析しているのか後で読まねばならないが、一つ言えそうなのは、どうも「小節」という概念はないんじゃないか、ということ。基礎となる単位があってその整数倍が上位の単位になる、という西洋音楽の形式とは違いそうだ。同型を何度も繰り返すのだが、繰り返す回数、従って一つのパターンの長さが、随時違っているのかもしれない。
だからなのだろうか、繰り返しを飽かず聞くうちに16分強という時間が過ぎていた。

Ry Cooderの曲は、彼がスラックキー・ギターを弾いたハワイアン。ここまで緩いのはそんなに知らない程のゆるさだが、だらしなさにつながる緩さとはまた違う。トロピカルなカクテルを飲みながらうつらうつらしたい、でも、着ているアロハシャツはおしゃれに決めたい、というところか。
それにしても、同じRy Cooderが"Stranger than Paradise"も"Buena Vista Social Club"も手がけているというのだから、なんという才人だろう。

そして、Peter Barakanも。いったい、どれだけの音楽を聞いているのだろう、この人は。それも、背景となる時代や地域、ミュージシャンの人物像、前後の音楽との関連を深く理解しながら。

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今日の曲目を確認するためにNHKのサイトを見ていたら、ピーター・バラカンのベスト50というリストがあった。Ry Cooderの“Into The Purple Valley”が31位。わがジャズでは、マイルスが5位、コルトレーンが28位に登場。1位はMuddy Watersの“The Best of Muddy Waters”。(聞いたことなし。)
何万枚というレコードを聞いている人が50枚に絞り、かつ順位をつけるのは、大変な難事なのだろうか、案外簡単なのだろうか。

Wednesday, December 07, 2005

松下の対応を評価する>>取り消し

石油温風器による事故に対する松下電器の対応には感心した。
中毒事故を何度も起こし、死者も2名出てしまったという大変な事故だから、当然といえば当然なのだろうが、ここまで徹底することはなかなかできないのではないか。
商品の買取自体が異例らしいが、これは購入者からすれば最低限だろう。
それ以外の、CMを注意呼び掛けに切り替える、町内会の回覧板でも呼びかける、石油の小売をしている燃料商を通じて情報を集める、こういう対応を聞くと、考えられるあらゆることをしようとしているなと思う。事故についての会社の悔い、無念、申し訳なさが伝わってくる。担当役員の「草の根を掻き分けてでも」という言葉にも、この会社が人の心を持っていると感じる。

経常利益2500億円の松下だからこそできる対応という面もあるが、姿勢としては多くの企業の模範になると思う。

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上記の記事を取り消します。企業というものを見る目が甘かったようです。
松下の言い分もあるようなので、保留にしてもいいのでしょうが、疑いを否定できない以上、取り消し。
cf.
温風機中毒の公表前、松下が部品を無償交換

2005.12.12

Wednesday, November 30, 2005

仲代達矢

今日の「私の履歴書」最終回には、正直のところ参った。
恭子さんに語りかけられた最後の一言が眼に入った瞬間、うっ。
記憶の底に沈めておいた思いが一つの塊になって立ち上がったような感覚。

いくら演劇人だからって、仲代さん、こんなに悲しく、美しいラストを朝から読ませるなんて、罪ですよ。

(それにしても、初回から今日まで、見事に構成された履歴書だった)

Monday, November 28, 2005

横浜トリエンナーレ

3年前とは全く別の会場だった。
ゲートから3号上屋まで徒歩10分と書いてあったが、歩き始めてすぐのボートの作品でいい気分になり、ひらめく旗はきっとビュランだと思ってガイドマップを見たらその通りなのでさらにいい気分になり、加えて、港の眺め空の青さともに申し分なく、実に快い10分(もっと短いと感じた)だった。

通常の美術館スケールを遥かに越える大倉庫2棟を使った展覧会。特に、天井の高さが圧倒的。
そうでなくても場を意識する現代アーティストに、「場にかかわる」というお題まで出したわけだから、スペースを活用あるいはスペースと対決する作品が多数。
即ち、目立った形態としては:作品の総容積がでかい、背が高い、色が派手、床に色々置いて回りを見させない、小屋のようにして客を二次空間に囲い込んでしまう、ぐるぐる歩かせる・上ったり下りたりさせる、などである。
奈良美智などは、囲い込んだ上に二階まで上らせ、さらに、屋外に出してしまうという徹底ぶり。小屋の板張りがいかにも川俣正好み。この辺のプランが功を奏したのかどうかは知らないが、奈良の得たスペースは今回最上といっていいだろう。板張りの一部を切り抜いた窓から飛び込んできた空と海とベイブリッジの美しさ!誘導されて出た屋外の爽快さ!

好きな作品、印象に残った作品をいくつか。
前述のボート。外観からの印象とは全然異なり、船内は居心地のいいリビングになっている。置いてあったシャンパン、夜開けるのだろうか。
らくだのシルエットが室内を歩く映像作品。キュート!
神村恵のダンスパフォーマンス。パフォーマンスによって、空の青さが際立った。最も場にかかわった作品と言えるかもしれない。
会場のあちこちに設置された双眼鏡。

近ければ、夜もう一度見てみたいのだが。

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来場者10万人を越えたという。現代アートの展覧会としてはかなりの数と思う。それでも入場料収入は最大1億8千万円。協賛を加えても支出を大きく下回るだろうことは明白。大部分は国際交流基金と横浜市の負担か。
入場料収入で採算をとろうとしたらこういう展覧会は不可能。誰が負担すべきなのか。公的負担はおかしいと考える人もいるだろうし、文化を育てることの長期的意義を考えれば負担は当然と考える人もいるだろう。
ぼくの頭の中の綱引きは、負担当然側優勢ではあるが、はっきりとは勝負がついていない。

Tuesday, November 22, 2005

上海のコーヒー

今月初めに行った上海では三か所でコーヒーを飲んだ。
浦東地区のホテルの日本食レストラン、サラリーマン向けの和食食堂、外灘3号館のカフェ。
ホテルのコーヒーは、特に印象に残っていない。普通の味だったのだろう。
食堂のは、昼定食に付いてきたもの。これはコーヒー音痴のぼくでも、なんじゃこれは?と思う代物。コーヒーらしき色はついているが、味も香りも全くない。
外灘のカフェは、"Three on the Bund"という、マイケル・グレイヴスのデザインで古い洋館を改装したビルの最上階。ビルにはアルマーニのショップ、現代アートのギャラーリー等がはいっており、最近注目されているという。カフェの入り口側はレストランになっていて、通路脇にはずらっとワインが並ぶ。バーもあり、見たところコニャック、スコッチあたりが色々。テーブルや椅子はシンプル、モダン、スマート。一番奥の窓際に座った同行の通訳嬢は、「ここ、テレビドラマに出てきたわ」と喜んでいた。ガラスの天窓があり、そこから雨漏りし始めていたが、店員は淡々と処置していた。
コーヒーの話だった。実にまっとうな、おいしいコーヒーだった。500円程度だから、中国では奢侈品の部類だろう。
茶の国中国では、コーヒーの味にこだわる人はまだ少ないらしいが、こういう空間でおいしいコーヒーを知れば、本物志向になるだろうと思う。一方で、これがおしゃれなんだと、コーヒーまがいの液体を飲んで喜ぶ若者も増えるんだろうな。

Wednesday, November 02, 2005

ポータルサイトの地図

前にGoogle mapについて書いたが、日本勢もなかなか頑張っていた。
Gooもlivedoorも、マウスドラッグで国内はどこまでも辿れる。加えて、ピンポイントで位置指定しURLをメールで送れる。さらに、出発地と目的地を指定すると、経路を探索してくれる。
いずれも、カーナビで磨かれた技術の応用だろう。
Gooとlivedoorのどちらがいいかとなると、これが一概に言えない。地図そのものの詳しさはGooが上。(NTTの基礎データを活用?) 経路探索はlivedoorが上。Gooは条件設定ができたりして高機能に見えるのだが、遅い。かつ、条件によっては変なルートを出してくる。
付加的な機能もlivedoorの方が面白い。地域にコメントを付けられたり、My pageに指定ポイントを登録できたり。

ところで、地図の基礎データは、各社独自に収集・入力しているのだろうか。同地域同縮尺でも、ある店の名が出てたり出てなかったりするところを見ると、たぶんそうなのだろう。これだけ膨大な作業を何社もがばらばらやっているというのは、少し無駄のような気もする。いずれ競争で差がついてくると、これについても合併吸収されるのだろう。
そうなれば、それぞれのいいとこ取りがされるだろうから、そう遠くない時期に、かなり実用的で面白い地図サービスが実現することは間違いあるまい。

それにしても、Googleのようなぶっ飛んだことをやるサイトはたぶん日本では出ないだろうと思う。鳥瞰したり衛星瞰したりしながらドラッグで世界一周することは、好奇心を大いに満足させるが、今日行く店を探すこととは関係がない。従って、費用に見合う利益がすぐに上がるとは考えにくい。それでもGoogleがこれをやるのは、極端な形から発想することが企業文化だからなのだろう。そして、それこそが、本当に革新的なものを産み出す方法なのだろう。

Sunday, October 23, 2005

mixi

このところ、GREEにはほとんどログインせず、mixiばかり使っている。
仕事関係はGREEと思っていたのだが、なかなかうまくいかない。同世代の同業者があまりメンバーにいないらしいことが恐らく一番の要因。

一方で、mixiでは参加コミュニティが随分増えた。音楽、美術、食べ物、飲み物、旅行等で面白そうなものが色々ある。趣味の世界は世代関係なしと勝手に決めて、たまに書き込むとちゃんと反応がある。正直、嬉しい。

11月初めに上海に行くのだが、これも、上海関係のコミュニティで、ある若い中国人が書いたものを読んで意思を固めた。現在、何人かと情報交換中。これまでの海外旅行とは随分違った展開になりそうで楽しみだ。

Tuesday, October 18, 2005

新谷弘実「病気にならない生き方」

(GREEのレビューに書いたもの)

説得力のある本である。健康法の本は数多あるが、説得力という点で出色だと思う。
疑問に思う点がないわけではない。そもそもの根幹にあるミラクル・エンザイム(酵素の元になっているもの)の存在を始め、著者自身仮説と断っている命題が多数ある。今まで死亡診断書を書いたことがないという主張についても、著者の方法の妥当性を強化するものだとは、私は思わない。

が、にもかかわらず、説得力がある。なぜなのだろう。
例えば、牛乳は飲まない方がいいという私には衝撃的な主張がなされる。理由としては、均質化する際に酸化が進んでいる、そもそもどんな動物でも母乳を飲むのは乳児だけ、牛の乳のラクトースはヒトには消化困難であるから、と。
あるいは、油は減らした方がいいという。理由は、植物から油を採る時、今は絞るのではなく溶剤で溶かしてそれから溶剤を飛ばすという化学的方法を用いているから。
あるいは、肉は食物全体の8分の1でいいという。理由は、人間の歯のうち、犬歯は全体の8分の1、これが摂取すべき食べ物の割合を示しているから。等々。

データや式の類はほとんどない。日常の論理と、中学・高校で学んだ生物・化学の知識だけが拠り所の私のような者にとって、実に分かりやすい説明なのだ。

科学者からの反論は数多くあるだろうと思う。牛乳業界、マーガリン業界、食肉業界も黙ってはいないだろう。
どちらが正しいのか、論争は大いにやってほしい。
でも、決着が着くまで待てない私は、牛乳をやめ、肉を減らし野菜を増やし、1日1500cc以上のミネラルウォーターを飲み始めた。(酒も少し減らした)

Monday, October 17, 2005

iTunes

iPodはまだ持っていないが、iTunesの利用を始めてしまった。
(「しまった」という背景には、大変なことにはまってしまった、いやはや、という思いがもちろんある。)

もともと、気に入った曲を色々な歌、演奏で聴きくらべるのが好きで、例えば、20人が歌う"Yesterdays"とか、"Song is you"の演奏10通り、などというCDを自分用に作ってみたいと思っていた。そのために、大きなCDショップでジャズ・ヴォーカルの棚を片っ端見、"Yesterdays"1曲が入っていれば他の曲は何であれ買う、なんてこともかつてはした(ほんの数枚だが)。
今でこそ、Amazonなどで曲名検索をすれば、それが入っているCDがある程度見つかるから、だいぶ楽にはなったが、コストがかかるのは変わらない。1曲のために2500円!
それが、iTunesでは1曲単位で買えるのだから、検索結果を見てついにやにやしてしまう。

しかし。Appleの罠は巧緻であった。1曲買いするつもりでいても、なかなかそうは卸してくれない。検索結果には、アルバム名も当然出る。元々嫌いなわけじゃないのだから、つい、そのアルバムの内容を見る。各曲30秒だけ無料で聞けるという有難い(困った)サービスがあるから、どうしたって全部聞いてしまう。すると、目的の曲以外にも、1、2曲はいい曲がある。それだけ買えばいいかというと、アルバム単位で買わないとダウンロードできないボーナストラックまであり、悩んだあげく、結局はアルバムごとダウンロードしてしまうのだ。

わが身をもって実証したマーケティングの法則。コストの高さによって抑え付けられていた欲望は、コストが低くなったと感じれば堰を切る。仮に、結果的には以前と変わらぬコストがかかったとしても。

Monday, October 03, 2005

善く生きる・・・

前回の「親と子」で、[要は、親が子のためにできる最大のことは「自ら善く生きること」ということになる]と書いた。
では、「善く生きる」とはどういうことか、という問いが当然生じる。

結果で評価されるなら、まだ基準を示しやすい。所得とか、スポーツの記録とか、メディアに取り上げられた回数とか。
しかし、生きる姿勢の善し悪しを何によって評価、判断するのか。

倫理や道徳の意義はここにあるのだろう。

万人が認める倫理、道徳があるのか、といった議論はここではしないが、個人と集団という点で言えることがある。
個人にとって「善い」とされる生き方が結果による評価とは別の価値観に基づく場合でも、集団に属する個人が皆そのような生き方をすることはその集団に好ましい結果をもたらすことが多いだろう、ということだ。

例えば、正直であること。
個人にとっては正直であることが常に利得を増すとは限らない(罪悪感を持たずにすむというような主観的なことは別にして)。殺人の認否が自分の生死を分けることもある。しかし、嘘つきの構成員ばかりでは集団は存続できないから、集団は、「正直であること」を個人の生き方として高く評価するだろう。

例えば、他人のために犠牲を厭わないこと。
極端な例だが、電車のホームから転落した人を助けようとして命を落とした韓国人留学生がいた。利己主義的観点からは、命まで犠牲にしなくてもという見方もあるだろうが、賞賛の声が多かった。利他的行為は集団全体にとって望ましい結果をもたらすことが多いことと、関係が深いだろう。

国、民族レベルまでいかず、数代にわたる家系というような集団であっても、このことは言えそうだ。例えば、利得や賞賛を求めずただ勤勉であれ、というような家訓を守る家系があったとすると、数代の中には結果として大きな成功を収める者も現れる確率が高いと考えられる。

以上から、個人にとっての善い生き方の起源は全て集団にある、とまで総括するつもりはない。例えば、神に対する敬虔等、宗教的な善に関しては、起源を異にするものがあるようにも思われる。
しかし、善が、個と集団の関係と密接に関連する概念であることは間違いない。

(今さら言うまでもない当たり前のことを書いただけのような気がしてきたが、前回のままで終わらせてしまうのは何となく気持ちが落ち着かないので)

Sunday, October 02, 2005

親と子

親が子に示すべきものは、結局のところ、どのような姿勢で生きるか、ということにつきるのではないか。

親が意識しようがしまいが、子はそれを見て育ち、見習うにしろ反発するにしろその影響を強く受けるわけだから、「示す」というより、要は、親が子のためにできる最大のことは「自ら善く生きること」ということになるが。

ある生き方をしてその結果がどうだったか、功成り名遂げたか、ささやかなものだったか、あるいは失敗だったか、親の一生を振り返って子が思うことは、そういうことではない。生き方そのものが尊敬できるものであれば、子は親を立派な親だったと振り返ることができるのだ。

結果は、その時々の状況に左右される。運もある。成功の大小のみで生き方の評価はできない。人生経験を積んだ者にとってこれは当然の理だが、子が親の一生を振り返る際、結果はそもそも視野の周辺にしかない。中心にあるのは生き方そのものなのだ。

昨日、ある尊敬する方のご尊父の葬儀に参列し、故人の業績を称える弔辞と、生き方を振り返る喪主の挨拶を聞き、上のようなことを思った。

Thursday, September 22, 2005

ヨドバシ

昨日仕事ついでに、秋葉原に開店したヨドバシカメラを覗いてきた。
思っていた以上にワンフロアが広い。大型家電店一店分は優にある。当然、品目毎の品揃えもすごい。
それ以上に驚いたのは、家電以外の売り場。本、CD、さらにはメガネ、スーツまである。
そして8Fのレストランフロアが、なかなかに楽しめる店舗構成。秋葉原は食事の場所に難があったから、ここは人気を呼びそう。

今までの電気街の集客力が簡単に落ちるとは思わないが、少なくとも新しい人の流れが生まれることは間違いないのではないか。

Wednesday, September 21, 2005

選挙制度

少し前の話になるが、NHKが行った総選挙についてのアンケート結果では、「自民党の議席は多すぎた」と考えている人が過半数とのこと。
こうなることもあるのが小選挙区制ということで、かつてカナダでは与党が一気に2議席に減ってしまったことさえあるという記事もあちこちに出ていた。

有権者は、ある党に勝ってほしいと考えその党に投票することはできるが、どの程度勝ってほしいかという思いを示す手段がない。
ネット投票が可能になれば、自民に55点、民主に45点なんて投票も技術的には考えられるのだろうが。(これを集計した結果の意味というのも、よく検討しないといけないが)

理論的には、争点が全国共通の政策ただ一つの場合、民意を最もよく反映するのは比例選挙ということになるだろう。もちろん、全ての政党がその一点で争い、有権者もそのことを認識しているのが前提。
このような選挙において、地方選挙区の存在意義とは何なのだろうか。全国区一つで足りはしないか。
全国共通の政策といっても、地方によって判断が異なることはあり得るから、それを反映する、ということか。その場合、単位となる地方の大きさはどの程度に設定するのが適切なのか。

Saturday, September 17, 2005

ラジオ

昨日はラジオの当たり日だった。

朝のNHK第一「ビジネス展望」は寺島実郎氏がかなり政治的な発言をし、へえ、NHKでもこんなに言わせちゃうんだという面白さがあった。

NHKFM「ミュージックプラザ」の1曲目、シェーンベルクの「浄められた夜」が素晴らしかった。6重奏版で演奏はターリヒ四重奏団+2人。途中で職場駐車場に着いてしまったのだが、降りずに最後まで聞いた。
この曲を聞いたのはかなり久しぶり。こんなにもロマンティックだったとは。
使われたCDをネットで探したがなかなか見つからず、結局CDNOWで中古を予約した。

夜のNHK第一「いとしのオールディーズ」は、ゲスト秋山仁氏の話がよかった。生まれついての秀才とは違うことを自覚しつつ、好きな数学を続けたいというだけで、挫折を重ねながらここまで来たという、勇気づけられる話。(再放送)

Tuesday, September 13, 2005

選挙結果

衆院議員選挙についての感想を2,3。

・自民党を大勝させたのは、郵政民営化等の政策に対する評価以上に、すっきりとしない理由で首相に抵抗し続けた勢力を断固排除した政治スタイルに対する評価だろう。

・投票率は前回よりかなり上がったが、それでも有権者の約3分の2。今回のような選挙でも棄権する有権者とは、どのような生き方をし、何を考えている人々なのか、分析がほしい。

・小選挙区制は、得票率の差を大きく増幅させて議席数の差にする制度であるということは、頭では分かったつもりでいたが、ここまで強烈に結果が出るということには正直驚いた。重要な政策パッケージが概ね二つに収斂し、どちらかを選ばなくてはならないという時には有効だろう。一方で、パッケージが収斂していない時や、3つ以上の有力なパッケージがある時にはどうなのかという疑問はある。ゲーム論等の数理的な研究も含め、政治学における更なる研究がほしい。
 考えてみれば、評論家の誰だかが言っていたが、これの極端なのが大統領選挙なのだろう。得票数の比が50.1対49.9であっても、議席比は100対0になる。(アメリカの前回は、得票の少ない方が勝ってしまったが、これには別要因も含まれる)

Saturday, September 10, 2005

井上篤夫「志高く 孫正義正伝」

(GREEのレビューに書いたもの)

ある程度は割り引いて読むべきなのだろうが、それにしてもすごい男だ。
他のことを全て忘れるほど集中する。初めから最重要ポイントがどこかを把握し、一気に迫る。常人には絶望的に見える状況でも諦めず、可能な限りの手を打つ。
もしかしたら、本当にNTTに勝つのではないかという気さえしてくる。

バークレーから日本に帰ってきて1年数ヶ月、目立った行動は起こしていない。この間に何を考えたのか、興味のある所だ。

堀江貴文「100億稼ぐ超メール術」

(GREEのレビューに書いたもの)

かなり面白い。
日報をメールで書き、それを社員全員が読み、かつ、決算等のデータに結びつける。
今までなら会議でやっていたようなことを片っ端メーリングリストで行う。等。
自分の職場ですぐに真似することはほとんど不可能ではあるが、考え方は大いに参考になる。

岩崎峰子「祇園の課外授業」

(GREEのレビューに書いたもの)

舞妓がいかにして教養を身につけるか、よく分かる。置屋の養女となった著者は4歳で楽茶碗に触れ、舞は四世井上八千代に習い、という具合。
舞妓として呼ばれる席の客は、谷川徹三、吉田正、塚本幸一、等々。
祗園で遊ぶというのは、並大抵のことではないと知る。

Google Map

地球上のあらゆる場所を地図と衛星写真で見せようという大変なサイト。Google偉い!
縮尺は、地球全体を一面で見せるレベルから我が家が分かるレベルまで15段階ほど。
データは連続していて、ドラッグを続ければ世界一周できてしまう。

まだまだデータのない地域が多く、イタリアでさえ都市レベルの地図がないほどだが、それでも実に面白い。これで遊んでいると1時間位あっと言う間だ。

(今このサイトに関して評判になっているのは、今回のハリケーンの被害が分かること。通常の衛星写真以外に、カトリーナ後の衛星写真も載っており、ニューオーリンズ市内のハイウェイが水没している状況などがはっきり見える。地図と衛星写真の重ね合わせもできる。)

えっ・・・

絶句。GREE上で日記に付いていたコメントが消えてる・・・
bloggerでの更新を反映しようとして、管理?日記の設定?日記のURL「登録する」とやったのがいけなかったか・・・すぐ反映するにはこれしかなさそうで、やっちゃったんだけど。

okadaさん、貴重なコメントだったのに、ごめんなさい。

昨夜はI氏と

土浦で飲んだ。
SNSに対し懐疑的、と言っては言い過ぎかもしれないが、相当に慎重な姿勢であることが興味深かった。
確かに、たまたまネット上でちょっと関心を持った程度の相手に対し、十年来、二十年来の知己に対するのと同程度に自分を曝け出すようなことは危険だろう。
本当に慎重を期すなら、「友達」は実際によく知っている人物に限定し、かつ、日記の公開対象は「友達」に限定する、というようなやり方がいいのだろう。
しかし、これでは、直接の知己を超えてネットワークを広げることができなくなる。メンバー全員がルールを厳格に守るなら、「友達」の「友達」は信頼できる可能性が高いことになるから、その範囲の相手とメール等でやりとりを重ね、コミュニティのオフ会等で実際に会った上で、「友達」を増やすことはできるが。
GREEもmixiも、建前としてはそういう形でのネットワーク拡大のみを推奨しているようだが、現実はなんでもあり。
orkutのように、"best friend"から"haven't met"まで友達に区分を設ける方法もあるのかもしれない。(ただし、orkutでも、その区分は自分にとってのものであり、他人には見えないが。)

もう一つ面白かったのは、秋葉原を相当変なところと見ていること。同様の見方をしている知り合いは少なくなく、驚きはしなかったが、行政の公式の見方では出てこない。科学の街つくばと、電気の街(ものづくり産業の一つのメッカ)秋葉原がつながったことにより、創造のエネルギーが高まった、というのが一般的な見方だろう。これの結論部分は間違いないと思うが、前段は少し違い、異なる分野でそれぞれ突出した人々(おたく同士と言う人もいる)の出会いが増すことにより、ということなのだと思う。

つくばエクスプレスが結びつける街は、つくばと秋葉原だけでなく、間の守谷、柏、北千住、浅草等いずれも性格が大きく異なる。ここまで違うものを結び付けている鉄道も珍しい気がする。それだけに、新しいものが生まれてくる可能性は大きいような気がする。

つくばと守谷の間にこれからできて来る街も非常に楽しみ。今はほとんど何もないが、田舎と先端が共存する、独特のスタイルを持った街になり得ると思う。

Sunday, September 04, 2005

spam blogs

blogがスパムに荒らされている。
blogherald.com/2005/08/30/

blogに限らない。ipowerwebというところに置いているぼくのwiki fileも、久しぶりに見たらだいぶやられていた。今のところ、ページ名が日本語のものは無事だが。

Googleさん、何とかしてくれー。

先行投資の得失

中国では携帯電話が瞬く間に普及したという。工業団地の面積は平方キロ単位がざらだという。
いずれにも、後発のメリットが効いている。
公衆回線の電話がさほど普及していなかった分、ある程度の所得を得た消費者は携帯を買いやすかったし、企業も既存インフラ対策などに悩むことなく投資できた。
立地条件がよくても既存の工場などほとんどなかったから、巨大な工業団地の造成が可能だった。まあ、こちらは途方もなく広い国土、土地に対する私権の弱さという条件も大きいだろうが。

話はぐっと小さくなって自分のことだが、何年も前に4万円弱でスキャナを買った。当時としてはその価格では高機能のものだった。今だったら同機能が1万円台、同価格ならはるかに高機能だ。初めてPCを買った時、デジカメを買った時、PDAを買った時、いつも同じことをやっている。2年も立つとずっといいものが出ている。

少し待った人の方が得をした、という見方もできるのだろう。
ただ、半分悔しまぐれだが、そうではないと思いたい。かつて、もう少し待てばさらにいいPCが出るから、その時買うんだといつも言っていた同僚がいたが、何年もたって高性能のPCを買った頃には、彼はエクセルを覚えるのもやっとという歳になっていた。
先行することにより、スキルでは後発者をリードするし、先行している期間に色々なことを生み出せもする。途中何台も買い換えたって、元は取っている(筈だ)。

とはいえ、やはり、限られた資金しかない者にとって、先行投資することは、ある期間の後に別投資ができないというリスクを背負うことでもある。一個人から国家に至るまで、この得失判断は相当に難しそうだ。

Saturday, September 03, 2005

Google

Googleのすごさについては梅田望夫氏がForesigt誌によく書いているが、技術の分からないぼくでも、どうやら大変なことをやっているのでは、という感じは強くする。画像検索で、ファイル名にほしい物の名前が含まれていなくてもちゃんと見つけてくるなんてことは、今では当たり前になっているが、Googleでこれをやってくれた時にはびっくりしたものだ。

最近の動きでは、図書館の書物を片っ端からスキャンしてデータベース化するというプロジェクト。なるほどこれは便利だろうと思っていたが、著作権侵害だという批判があり、一時中止したとのこと。

著作権からの連想だが、特許情報などは全てGoogleに処理してもらった方が遥かに効率的かもしれない。類似の先行特許があるかどうかなど、一国でなく全世界を対象として瞬時に答が出そう。

いっそのこと、知的財産全般について、「Googleで調査し、内容の50%以上一致する先行データがない場合は、新規性を認める」とか決めちゃうといいかも。

記号化できるものであれば世界中の全てをデータベース化し、関連付けしようというのがグーグルの壮大な狙いなのだろう。大いに楽しみだが、若干の不安も。
例えばGmail。削除しなくてすみ、関連のメールをグループ化してくれるのも便利だからそのままGoogleのサーバに置いているが、このデータを元に何ができるか、疑い出せばきりがない。メール利用者の関係マップ作りなどはorkutで技術開発済み。メールの内容という禁断の領域に入って分析し、A氏に圧力をかけるにはその友人Bの友人Cの友人Dに対し、この材料で迫ればいい、なんて答を出したりして。

流刑地

日経に連載中の渡辺淳一「愛の流刑地」にはあきれ果てた。ここまで薄っぺらな小説はそうないのではないだろうか。
今までも、あまりにも二人の人物、人生が書けていないとは思っていた。これではなんのことはない、ポルノ小説じゃないかと。いや、読者の情欲を刺激するわけでもないから、ポルノですらないと。
現在は、冬香の求めに応じて首を絞め、結果的に殺してしまうという大変な局面になっているわけだが、ここに及んでも渡辺先生の筆勢(?)一向に変化しない。仮にも他人の妻で子供が3人いるというのに、その相手の人生に全く思いが至らないなんて、現実離れの極み、こんな小説意味があるんだろうか。自分の人生は一つしかないから、架空の世界で他の人生を少しばかり生きて見るのが小説を読む喜びであり、そのためには、その架空の世界に奥行きとか陰影とかが必要だと思うのだが。絵画同様、何も描かなければ奥行きなど出るわけがない。

先生は、夾雑物を削ぎ落とし純愛を描いているんだ、これこそ現実では経験できない生のありようだ、自分は人間本来の純粋な生き方を提示しているんだ、とおっしゃるんでしょうがね。

企業経営者等でこの小説を読んでる人は多いようだから、日経は大きな反響があると喜んでいるかもしれない。とんでもない。ちょっとした気分転換に使っているだけ。同じ時間を費やすならもっと深みのある小説の方がいいに決まっている。
城山三郎、隆慶一郎等々の見事な連載小説を生んだ日経文化欄の伝統はどうなったと言いたい。色々問題があったようで未完となってしまった前回の「新リア王」の方が、遥かに日経らしい立派な小説だった。

ついでだが、作家菊治が冬香への献呈文とした「Fへ捧ぐ」もおかしいのでは。「Fに捧ぐ」だろう。

blogの置き場所

ここ数日の顛末。
GREEがbloggerに置いたblogを反映することを知り、少しばかりGREEに書いたものをbloggerに移した。
しかし、bloggerの全てを読み込むわけではないこと、更新の反映に時間がかかるらしいことが分かり、GREEに戻した。その状態で何日分か書いた。
そこでまた考えてしまった。GREEは招待制・メンバーのみのSNSであり、当然日記を読めるのはメンバーのみ。公開のblogに書いていても読者など実はいないのだが、一応、誰でも読める状態に置いておいた方がいいのではないか。例えば、何か人に見せたいものを書いたとき、「ここに書いたから見ておいて」と言える。
というわけで、今朝再び、bloggerに移した。

その途端、別の問題もあることを知った。文字の大きさ、強調等のタグがbloggerとGREEで違うようで、反映されない。
仕方がないから、オリジナルはbloggerでご覧いただける、ということで我慢しよう。

Thursday, September 01, 2005

がっくり

バックアップなしのデータを壊してしまうなどというミスは、ここ数年なかったのだが・・・ やってしまった。

毎日これなしでは何もできないほど使っているiPAQ。日程とToDoは全てこれに入れてある。ずっと週に1回はPCとシンクロさせていたのだが、7月以降やっていなかった。iPAQのメモリを使ったバックアップに到っては3月にしたきり。

という状況下で、やってしまった。AH-K3001V(京ぽん)とつなぐため、SUNTACのiCardを使うようになってからどうも調子が悪く、このところリセットすることが増えていたのだが、今日はついに全く反応しなくなってしまった。電源もはいらず、リセットボタンも効かず。で、暑さで呆けたとしか言いようがないが、ロックを外してバッテリをスライド(この時点では何も気づいていない)。今度はリセットが効き、ああよかったと思ったのは束の間。立ち上がった画面の背景が違う!日付が2004年に戻っている!日程、ToDo何もなし!!

トホホ・・
まだ、何もする気になれずにおります。

Wednesday, August 31, 2005

TX

25日に続き、昨夕もつくばエクスプレスに乗った。研究学園駅で乗車、一日乗降自由券を使い、みらい平と北千住で降りて、戻った。
前回はTXに乗ること自体が目的と見える乗客が半分位だったが、昨日は仕事での利用が過半と見えた。下りでは守谷まで座れず(いいことだ)。

TXの下りで利根川を越えると環境ががらっと変わるとはよく言われること。実際、沿線は農地が広がっているし、駅周辺もみらい平以北は概ね空地だ。もともと自動車研究所の試験コースだった研究学園駅周辺などは、見渡す限り何もない。
これで宅地が売れるか1年ほど前には少し心配もしたが、開業が近づくに従いマンションやSC用地として大区画の契約が続いている。
街らしい要素が増えれば戸建も期待できそう。身びいきでなく、地価、環境、通勤時間(及び座れるかどうか)を総合的に考えれば、東京通勤1時間圏では最後の好物件だと思う。

Tuesday, August 30, 2005

情報発信力

「茨城は情報発信力が弱い」とよく言われる。
ここで早くも立ち止まってしまうのだが、これ自体、結構分析を要する命題だ。どんな情報の発信なのか。情報を発信するのは誰/何なのか、「茨城」が発信するというのは県庁がということだけではあるまい、地域が発信するということがあるのか。

結局、この命題の意味の一つは、「茨城という地域ブランドは、他の地域ブランドに比べて弱い」ということだろう。
例えば、「ニューヨークでダンスを学んだ」、「京都の料亭で修業した」と言えば、一応は、それはなかなかかも知れないと思われる可能性が高いだろう。これはニューヨークや京都の地域ブランドの高さを示すものだ。(ただし、地域ブランドには得意分野があり、京都でダンスを学んだ、ニューヨークの料亭で修業した、ではさほど感心されないだろう。)
茨城に関してこのようなことが言えるかとなると、首を傾げてしまう。地域ブランドが弱いというのは、そういうことだ。


(途中は後で書きます)


昨夜、一緒に飲んでいた同僚と意見が一致したのは、勝てるブランド、特に食べ物のブランドを育て、それを目当てにする人々に、他の茨城の優れたものを知ってもらうのが有効ではないか、ということ。
いくら優れたものであっても、知られていないものの情報を受け取ってもらうことは大変なことだ。CMに有名人を使うのも同じ理由だろう。
食という領域は、茨城に優れたものがあるということを認識してもらう上では、他の領域よりやりやすいだろうと思う。

奥久慈しゃもや常陸秋そばなら、質の点では専門家の折り紙つき。既にこれを使った都内の人気店もある。
奥久慈しゃもの焼き鳥をメインに、魚と野菜の料理も何点か揃え、茨城の地酒(あまり知られていないがいい銘柄がいくつもある)を飲んでもらう。そして仕上げは常陸秋そば。この料理屋(居酒屋?)は、立地とスタッフがよければ成功する。
そして、レジの脇あたりにさりげなく観光や住宅団地のパンフレットを置いておけば、手にとってもらえる可能性も高いのでは。

Monday, August 29, 2005

livedoor Wiki

GREE内をあちこち見ていて、遅ればせながら、livedoorがWikiを始めていることを知った。これはいい。
個人でwikiサイトを構築している人は多いが、共通関心事項についてみんなで作業をしようという場合には仲間集めが大変のはず。livedoorのような所なら簡単にできるだろう。

Sunday, August 28, 2005

技術的に解決

なんと、bloggerに書いた日記がそのままGREEに反映される!
技術とはたいしたものだ。

Saturday, August 27, 2005

GREE

YES!PROJECTに感心し、参加しようと思ったらGREEのアカウント所持が必要とのこと。メンバーの知り合いを思いつかず、ヨネコングさんに招待してもらった。

招待方式のSNSでは、orkutにはいっているが最近ご無沙汰。言葉の壁はどうしてもある。英語でも苦労するのに、半分以上ポルトガル語のわけだから。せっかく面白いことが書いてありそうなのに読めないのは歯がゆい。

その点、ここは言葉の問題はない。設計はよくできてるようだし、楽しいメンバーも多そう。
問題は、日記をどうするか。滅多に書かないが今はbloggerを使っている。分散させたくないし、移すのは面倒。

Saturday, May 28, 2005

ネットサイエンス・インタビュー・メール

新スポンサーの方針により、突然、配信停止だという。
「次号から産総研の何某氏」という予告まで出していた編集人の森山和道氏にとって、こんなに悔しいことはあるまい。
特に興味のあるテーマのときちょっと読む程度の読者ではあったが、これだけのメルマガはそうはないと断言できる。最先端の科学者が何を考えているのか、論文では恐らく何も理解できないだろうが、このメルマガでは、ぼくのような門外漢にも多少は分かった。編集人の知的蓄積、相手から言葉を引き出す力、並大抵のものではない。

有料メルマガとして復刊を期しているとのこと。
確かに、誰かが経済的に支えなければ続けられないのだから、企業スポンサーが外れれば、有料しかないのだろう。便益を得る読者がコストを負担するのは当然といえば当然だ。
予告されている購読料月315円は、情報の価値に比して非常に安いとは思う。しかし、タダだから読んでいた読者の多くはこれでも離れてしまうのではないか。貧乏学生や全く異分野の人など。そういう読者の中にも、このメルマガで刺激を得、自分がこれから進む分野や、一見全く別の領域での新たな発想を生み出したろう者はいたはず。

直接的利用者に全て負担させるのでは、将来生み出されたかもしれない社会的に有用なものを失う恐れがある。(だから大学教員等の給与は国家が相当程度負担するのだろう。)
広告付きメルマガとかウェブサイトというのは、なかなかうまい方法だと思うが、企業が厳密に費用と収益を計算すると割りに合わないことも多いだろう。
知的財産の生産・流通にかかる費用負担をどう社会の中で分担すべきか。簡単な問題ではない。

Monday, April 18, 2005

ETC

昨日取付け、今日初利用。
ゲートのバーがぱっと開くのは結構痛快。ただし、まだ、こわごわそろそろの通過だけれど。

Tuesday, April 05, 2005

「名張毒ぶどう酒事件」再審開始決定

これまで事件の存在すら知らなかったが、高裁の決定要旨を読むときわめて明快で、これは、冤罪の可能性きわめて大だろう。
それにしても死刑確定から33年、本人79歳である。あまりのことにため息もでない。

これをもって直ちに死刑廃止論に与するつもりはないが、死刑という判決は証拠等がよほど決定的な場合に限るべきであるとは思う。

cf.(2005.4.5の項)

Monday, April 04, 2005

"On Intelligence"

ジェフ・ホーキンス著 日本語訳「考える脳 考えるコンピューター」、ランダムハウス講談社

まだ半分も読んでいないが、これはすごい本。知的興奮はミンスキーの「心の社会」を読んだ時以来であり、今後の影響の予感はこれまでにないレベル。
脳科学をはじめとして、人間の精神活動に関するあらゆる科学が大きな影響を受けるに違いない。

学術書仕立てでなく一般書のスタイルになっており読みやすい。また、比喩の使い方が実に見事。

Friday, April 01, 2005

trav'lin' light (2)

音楽がどのように聞こえるかは、聞き手側の気持ちのありようによって全く違う。

ふだんは、深い悲しみが基底に流れながらも微かな甘酸っぱささえ感じるビリーのこの曲が、これまでで最も悲しい歌に聞こえることさえあるのだ。
スウィングという名の一見明るいヴェールの部分など全くないもののように、包まれていた筈の悲しみのみがこちらに到達し、押し殺していたはずの感情を共振させ、増幅させる。

(歌い手がエラだったら、こうはならないとは思う。)

Thursday, March 24, 2005

朝食の店

仕事や飲み会で遅くなり、ビジネスホテルに泊まることがある。
困るのは翌朝の食事。
職場に早く出る癖がついているので、7時前に食べたいのだが、なかなか店がない。
マクドナルドでは味気ないし、デニーズでは落ち着かない。吉野家は近くにない。
結局、コンビニおにぎりか、スターバックスでサンドイッチとコーヒーのことが多い。
今朝もスタバ。サンドイッチの替わりに、勧められたクロワッサンにしたが成人男子にはカロリー不足。
最近できたエクセルシオール・カフェのクロワッサン・サンドの方がずっといいが、残念なことに開店が7時。

Friday, March 11, 2005

trav'lin' light

このところ毎日、ビリー・ホリデイの"trav'lin' light"を聞いている。1942年6月12日に録音したPaul Whiteman Orchestraとのもの。ストリングスが入るのはLady in Satinぐらいかと思っていたが、この時期既にやっていた。
ホルン(息子の説。まさかとも思うが、確かにミュート付トランペットでもない感じ)をフィーチャーした長めの前奏(sweet!)の後、ようやくわがディーヴァが登場するのだが、最初の"I"から、たまらない。「ア」が耳に届いた時点で、もう痺れてしまう。
どの程度の強さで出るか、声の柔らかさ・硬さはどの辺にするか、次の音へどう変化させていくか等々、歌手は、伴奏とのバランスも意識しながら最適の声を一瞬のうちに選んでいるのだろう。考えて決めるというのではない、全身全感覚を動員した調整。演奏というのはそのような調整の連続なのだろう。
だから、出だしの声を聞けば、その歌手の力量は相当程度評価できると思う。
この"trav'lin' light"、ぼくにとっては出だしの声ベスト10にはいる。

それにしても原題の"trav'lin' light"、一体どう日本語に訳したらいいのだろう。「彼が私の心を持って去ってしまったから、軽くなって旅をしている」という歌詞なのだけれど・・


"TRAV'LIN' LIGHT" Johnny mercer / jimmy mundy

I'm trav'lin' light
Because my man has gone
So from now on
I'm trav'lin' light
He said goodbye
And took my heart away
So from today
I'm trav'lin' light

No one to see
I'm free as the breese
No one but me
And my menories
Some lucky night
He may come back again
So untill then
I'm trav'lin' light

No one to see
I'm free as the breese
No one but me
And my menories
Some lucky night
He may come back again
So untill then
I'm trav'lin' light

Monday, February 14, 2005

英単語学習法

MILAというソフトをたまたま見つけ、iPAQに入れてみた。「重要熟語200語」を試しているが、なかなかいい。あいまいな部分を再度テストしてくるタイミングがよくプログラムされている。音声を聞いてのテストもできて、最新PDAの有難さを実感。
http://home.airbitway.com/ipaq_mila/

Thursday, February 10, 2005

Matt Dennis

先日、たまたまCD売り場で見つけ、そう言えばずっと以前に岩浪洋三だったか油井正一だったかがほめていたが、ちゃんと聞いたことはないなと思って買った。
Matt Dennisの"Plays and Sings"
こんないい曲、いい演奏をずっと聞かないできたとは。
ジャケットにある「小粋」という言葉がぴったりだ。"Compared to you"辺りのやや軽さのあるバラードがMattの声質には一番合っているように思う。"Angel Eyes"のような立派な曲になってくると、他の歌手でも聞きたくなる。"Everything happens to me"は、しっとりとしたメロディーにコミカルな味を加え、3分で一つのドラマを聞かせる傑作。

昨夜久々にSFに寄り、ここでもMatt Dennisをリクエストしたら、20年ぶりのリクエストだとママに喜ばれた。マスターに、「力が抜けてこないとこういう曲のよさは分かりませんよね」と言われ、ほめられた気分。

Sunday, January 23, 2005

「志高く 孫正義正伝」

ある程度は割り引いて読むべきなのだろうが、それにしてもすごい男だ。
他のことを全て忘れるほど集中する。初めから最重要ポイントがどこかを把握し、一気に迫る。常人には絶望的に見える状況でも諦めず、可能な限りの手を打つ。
もしかしたら、本当にNTTに勝つのではないかという気さえしてくる。

バークレーから日本に帰ってきて1年数ヶ月、目立った行動は起こしていない。この間に何を考えたのか、興味のある所だ。

Tuesday, December 14, 2004

ARCUS

アーティスト・イン・レジデンスを主とする茨城県のプロジェクト。自分も創設時に関わった。
オープン・スタジオの行われている、守谷市の旧大井沢小を訪ねた。
今年の招聘アーティストは米国、台湾、デンマーク、セルビア・モンテ・ネグロ、日本各1名。
この中で、感覚的に合うのは、米国と台湾のアーティスト。
米国のサンティアゴ・ククジュのスタジオに置いてあったのは、恐らく未完成のものだと思うが、無造作に壁に貼ってある紙に施された色使いにしても、単なる角棒を組み合わせただけとも言える立体の、その棒間の角度の組み合わせにしても、まさにアーティストの感覚。
台湾のリン・チェン=ロンのインスタレーションは真っ暗な部屋の天井から下がる鍾乳洞風の突起物と、ライトを当てた電動の人形。不気味でいて愉快かつ美しい。

いずれのアーティストものびのびと活動してきたように思った。アーティストの自由を極力尊重し、義務はオープンスタジオのみ、という当初の考え方がしっかり継承されているのだろう。
1階の教室には臨時のカフェが作られていた。芸大生の女性とフリーターと称する男性がサービス。暮れていく元校庭を見ながら飲んだ紙コップのコーヒーが旨かった。

Saturday, December 04, 2004

堀江貴文「100億稼ぐ超メール術」

かなり面白い。
日報をメールで書き、それを社員全員が読み、かつ、決算等のデータに結びつける。
今までなら会議でやっていたようなことを片っ端メーリングリストで行う。等。
自分の職場ですぐに真似することはほとんど不可能ではあるが、考え方は大いに参考になる。

Tuesday, November 16, 2004

人物画の背景

14日に、日展を見た。20年ぶりぐらいか。
あまりに巨大で、見る喜びと見る苦しみが拮抗するような展覧会なので、ずっと行ってなかったが、必要あって。結局、体力切れで、日本画、洋画以外はまともに見なかったが。

一つ収穫があった。
絵画を描くというのは、ある意味で、平面を埋める作業なのだ、ということに思い到った。

審査を受けている作品、つまり、日展の役員や会員でない恐らくセミプロ画家の作品の中には、素人目にも、おや、そうなのかなあ、と思うものがある。その「おや」の元を探ると、何点かに共通したのは、人物画の背景だった。
なぜ、背景のここに、このモチーフを描かねばならないのか、突き詰めていないように思えるのだ。極端に言えば、彼らの思いの殆どは人物を描くことにあって、背景は、埋めねばならない平面として描かれているのではないか、と。

人物画にとって、背景は不可欠だ。人物の部分だけ切り抜いて壁にかけたら、かなり奇妙だろう(現代アートにはあるだろうが)。
なぜ不可欠か。
仮説。
そもそもは、立体感を生み出すため。もとより作り物、虚構である絵画を、あたかも実在に近いものとするためには、平面において立体を感じさせる必要がある。(初めから立体である彫刻には、背景はいらない)

to be continued.

Saturday, November 06, 2004

銀座

Yと。

KIHACHIで昼食。オードブル2、魚1、肉1をシェア。
やや似たような味を注文してしまったが、総じて満足。
特に印象に残ったのは、オードヴルのフォアグラのフレッシュさ。ナッツやフルーツの使い方の巧みさ。ドレッシングのさりげないうまさ。甲州ワインの燻香。
キッチンの見えるカウンター席。指示が飛び交う喧騒とは程遠いことに驚き。オーダーが入った時点でリーダーらしき人物が一言言うのみ。皆黙々と動いている。作業工程がよく設計されているということだろう。

和光。店員の対応がいい。柔らかく、必要は十分に満たし、過度でない。

交詢社ビルのバーニーズ。1階の洒落具合は、いかにもニューヨークテイストで、思わずにんまりしてしまう。

Wednesday, October 06, 2004

*[bar] selene

急にLagavulinを飲みたくなり、seleneへ。16年もの。
次は、マスターに選んでもらい、Arran。シェリー樽で寝かせているとのこと。

Monday, October 04, 2004

*[art] Barnaba da Modena

かつてルーヴルで撮り、当然フラッシュも三脚も無いからややピンボケだけれど、少しだけ引き伸ばしてずっと家の壁に掛けてあるこの絵が、CGFAに掲載されていた。
あの時は作品の前でぼーっとしていたとしか思えないが、作品名も作者名もメモしていなかった。だいぶたってから、Kスクエアで質問し、ようやくBarnaba da Modenaの作であることを知ったのだった。
Virgin and Child

*論語

いつ読んでも含蓄が深い。
子曰、
學而時習之、不亦説乎、
有朋自遠方来、不亦楽乎、
人不知而不慍、不亦君子乎

Sunday, October 03, 2004

*[映画] 華氏9/11

評判になってからだいぶたつが、ようやく見てきた。

視点は明らかに一方的であり、反論も色々あるだろうと思う。
が、これを全ての米国民が見たら、ブッシュの再選はありえまい。そのくらい、軽蔑すべき大統領に見える。(実際には、共和党支持者は殆どこの映画を見ないから、選挙にはあまり影響しないらしいが。)
扱っている内容には、今まで報道されていたことも多いのだが、このように編集されると、きわめて鮮明で強烈な印象を受ける。

初めて知った事実もある。9月11日、ジェット機がWTCに突入した時刻、ブッシュはフロリダの小学校を視察していた。事件のメ