10月21日、笠間の陶芸美術館で。
この二人には、魯山人の書の師匠は岡本太郎の祖父であり、魯山人は太郎幼時の岡本家に住み込んでいたという接点があったことを本展で初めて知った。その接点を手がかりに二人の作品を見ていくと、何か新しい発見があるだろうというのが本展の企画意図なのだろう。
ぼくにとっては、発見はあった。ただし、企画意図とはずれているのかもしれない。
第一室は魯山人が中心。中に、岡本太郎主催の茶会の様子なども展示されている。
魯山人については、こんなにいいものだったのだと改めて思った。一つ一つの作品の完成度、質の高さ、ということとは別の意味でなのだが。例えば、何点か出ていた書と絵による屏風などは、書としてどうなのかは自分には分からないし、絵も俳味の強いもので、見る者として「芸術作品」に対峙する構えにはならない。しかし、これの置かれた部屋で酒を飲んだらさぞ楽しかろうと思える点では天下一品なのだ。食器、特に焼き物も同様で、これに刺身を盛ったら映えるだろう、これで煮物を食べたら旨かろう、というものばかり。花器も、その作品のみで鑑賞するよりは、花を生けてこそというものなのだ。
つまり、魯山人の作品は、茶事や会食の場、人と人との出会いの場という空間の一構成要素として捉えた時、その抜群の価値が現れるものであると思われた。
これは、本展の後、常設展で見た板谷波山が、作品のみで全きものとしてあり、そこに花を活けることも煮物を盛ることもためらわれるのとは際立って異なるものだ。
写真や資料で示された岡本太郎の茶会の様子は面白かった。茶会の本質は、そこに集う人々の持つ様々な知性や感性が触れ合って起こす化学反応にこそあり、どんな化学反応が生まれるかはメンバーの選考に拠る所が大きいのだなということが、まず思ったこと。道具立てを含む場の仕立ては、その化学反応のための触媒であって、触媒が違えば客のどこが刺激されるかが違うから、化学反応も異なってくる。湯を釜で沸かさず薬缶で沸かした太郎の意図も、そう考えて見れば、常ならぬ化学反応を起こしただろうと理解できる。
しかし、第二室の岡本太郎の作品には、共感するところが少なかった。どころか、違和感のようなものを覚えた。描かれている要素同士が一つの全体を構成するために共鳴する、共振するということがない作品なのだ。例えば、原色で描かれた炎のようなものの下に黒い太い蛇のようなモチーフを描いた作品。炎はたとえば宇宙の原初のエネルギー、その爆発とも見えるのだが、そのカオス的なものと、蛇的形態が共振しない。全く別個の無関係な存在であって、この二つが一つの空間に共存することなどあり得ないと感じてしまう。
別の、壁画のような大きな作品においても、目の化け物のような形態が他の要素と響きあわない。
絵画とは、異なる要素を統一的な全体として構築するものという観念をもって臨むと、裏切られるのだ。
恐らく岡本はこの違和感をこそ表現しようとしたのだろうとは思う。
全く異質なものを目の前に一緒に放り出してみせるということなら、例えば川俣正がその典型であるように、現代アートの一特性といえるのかもしれない。しかし、川俣と岡本はあきらかに違う。
川俣が街の一角に工事現場で用いるような板をはりめぐらすとき、この板は、街の持っていた一面を照射するのである。乱雑に貼り付けられた板の質感を感じながら石造りの建物、それらが構成する街の一角を見る時、普段ほとんど意識されていなかったこの街の質感、特性が浮かび上がり、強く感得されるのである。
これに対し岡本が原初の爆発のごとき色の隣りに描いた黒い蛇状のものは、爆発の意味を浮かび上がらせることはないし、原初の爆発によって黒い蛇の意味が見えてくることもない。無関係なままなのである。
見る者の眼力不足というだけのことなのかも知れないし、全く異なる観点から見れば大きな価値があるのかも知れないが、ぼくには、違和感ばかりが強かった。
違和感があまりなく素直に楽しめたのは、書とデザインをミックスしたような作品。夢などの文字をデフォルメし黒で大きく書いた周囲に、様々な色の、文字と同じほどの太さの線を配し、文字はすぐには判別できなくなっている。色と線によるバランスのよい構成であり、そこに勢いも加わるから、悪くない。
一見しては文字が分からないようにしようという企図ゆえに、黒い文字の線と他の色の線を溶け込ませるように全体を描いた、その結果として違和感のないバランスが得られたのだと思う。また、書という、自分の好みだけでは形状を決定しきれない、言ってみれば他律的な構成要素を用いたことが、岡本の意識に多少なりとも枠をはめ、全体の統一性に向かわせたようにも思える。
空間全体を構成する要素として書が生かされた、この点は、魯山人と岡本に共通する。このことが、二人に接点があったことと関係があるかどうかは、本展では読み取れなかった。
Saturday, October 27, 2007
Saturday, September 29, 2007
「牛乳を注ぐ女」
国立新美術館にフェルメールを見に行った。
展覧会自体は、「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」という名のとおり、フェルメールは当然ながら一点のみで、その他は全て同時代の別の画家のもの。早くフェルメールを見たい気持ちを抑えて、第一室から見ていく。40cm×30cm程度の絵が多い。なかなかに見事。女性の表情が生きている。テーブルクロスの質感なども実によく描かれている。この時代の空気が感じられるような佳品多数。
何室目かに多くの人が立ち止まっていて、いよいよかと思ったら、解説のための映像等を見せる部屋だった。これが大変優れた解説。青色の原料となる高価な石が印象的だった。
そして、次の部屋に「牛乳を注ぐ女」。
全然違うのだった、そこまでに見た他の画家たちの作品とは。
存在感、リアリティ、ありきたりの言葉しか出てこないが、質の違う存在感、リアリティなのだ。
女性の表情ということなら、実在の一人の女性の生き生きとした表情をとらえ、「ああ、これはどこの誰だ、彼女のこの笑顔がいいんだ」と知り合いたちが思うに違いないリアリティを持った絵が他に何枚もあった。
台所空間の表現でも、現実の台所の様々なにおいや、器の当たる音なども感じられるような絵を、他の作家たちはたくさん描いていた。
フェルメールのリアリティは、そういう類とは異なるのだ。
普遍性。永遠性。
26歳にして、フェルメールは、個々の物や人のリアリティではなく、目の前の事物を通して普遍的な事物の存在感を表現することに成功した、そう思われた。
現実の何某嬢の姿を借りて、「牛乳を注ぐ女」という普遍的な存在を描く。
ポットから流れる目の前の牛乳の姿を借りて、「流れる牛乳」という普遍的な物ないし現象を描く。だから、この牛乳は、永遠に流れ続けているかのようなのだ。
1658年何月何日かのある瞬間をキャンバスに固定したのではなく、その時流れていた時間を現在にいたるまでずっと流れさせているのだ。
これまで腑に落ちることのなかったプラトンのイデアとは、実はこういうことだったのかと思った。
展覧会自体は、「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」という名のとおり、フェルメールは当然ながら一点のみで、その他は全て同時代の別の画家のもの。早くフェルメールを見たい気持ちを抑えて、第一室から見ていく。40cm×30cm程度の絵が多い。なかなかに見事。女性の表情が生きている。テーブルクロスの質感なども実によく描かれている。この時代の空気が感じられるような佳品多数。
何室目かに多くの人が立ち止まっていて、いよいよかと思ったら、解説のための映像等を見せる部屋だった。これが大変優れた解説。青色の原料となる高価な石が印象的だった。
そして、次の部屋に「牛乳を注ぐ女」。
全然違うのだった、そこまでに見た他の画家たちの作品とは。
存在感、リアリティ、ありきたりの言葉しか出てこないが、質の違う存在感、リアリティなのだ。
女性の表情ということなら、実在の一人の女性の生き生きとした表情をとらえ、「ああ、これはどこの誰だ、彼女のこの笑顔がいいんだ」と知り合いたちが思うに違いないリアリティを持った絵が他に何枚もあった。
台所空間の表現でも、現実の台所の様々なにおいや、器の当たる音なども感じられるような絵を、他の作家たちはたくさん描いていた。
フェルメールのリアリティは、そういう類とは異なるのだ。
普遍性。永遠性。
26歳にして、フェルメールは、個々の物や人のリアリティではなく、目の前の事物を通して普遍的な事物の存在感を表現することに成功した、そう思われた。
現実の何某嬢の姿を借りて、「牛乳を注ぐ女」という普遍的な存在を描く。
ポットから流れる目の前の牛乳の姿を借りて、「流れる牛乳」という普遍的な物ないし現象を描く。だから、この牛乳は、永遠に流れ続けているかのようなのだ。
1658年何月何日かのある瞬間をキャンバスに固定したのではなく、その時流れていた時間を現在にいたるまでずっと流れさせているのだ。
これまで腑に落ちることのなかったプラトンのイデアとは、実はこういうことだったのかと思った。
Thursday, September 27, 2007
Stella by Starlight
この曲、スタンダードにしては、ヴォーカルより楽器のみの演奏で聴くことが多いのだが、理由は単純だった。もともと歌詞のない映画主題歌で、ヒットした後からNed Washingtonが歌詞をつけたとのこと。「もともとインストゥルメンタル・ナンバーとして作られたものなので、
音域が「1オクターブと完全5度」とかなり広く、シンガーにとっては難曲中の難曲」なのだそうだ。 (ジャズ・ピアニスト大関敏夫さんのブログより)
(歌詞)
The song a robin sings,
Through years of endless springs,
The murmur of a brook at eventide,
That ripples by a nook where two lovers hide.
That great symphonic theme,
That's Stella by starlight,
And not a dream,
My heart and I agree,
She's everything on earth to me.
なんともロマンティック。
(実は、そう理解するまでに何度か辞書を引いた。)
シナトラの流れるような声を聴いていると、歌うのがそんなに難しいという感じはしないのだが、試しに歌ってみたら、高いところのレガートをすーっと伸ばすところその他、どうにもならなかった。ぼくがだめだからプロにとっても難曲、ということにはもちろんならないけど。
音域が「1オクターブと完全5度」とかなり広く、シンガーにとっては難曲中の難曲」なのだそうだ。 (ジャズ・ピアニスト大関敏夫さんのブログより)
(歌詞)
The song a robin sings,
Through years of endless springs,
The murmur of a brook at eventide,
That ripples by a nook where two lovers hide.
That great symphonic theme,
That's Stella by starlight,
And not a dream,
My heart and I agree,
She's everything on earth to me.
なんともロマンティック。
(実は、そう理解するまでに何度か辞書を引いた。)
シナトラの流れるような声を聴いていると、歌うのがそんなに難しいという感じはしないのだが、試しに歌ってみたら、高いところのレガートをすーっと伸ばすところその他、どうにもならなかった。ぼくがだめだからプロにとっても難曲、ということにはもちろんならないけど。
Sunday, September 16, 2007
デザインをちょっと変更
このblogを書いているbloggerの機能が拡張され、好みで色々なアイテムがつけられるようになったことを知った。
とりあえず、リスト機能を利用し、「読んでいる本、読んだ本」という項目を加えた。
ずっと以前に遡るのは大変だから、"Emotion Machine"以降に読んだものだけ載せてある。
とりあえず、リスト機能を利用し、「読んでいる本、読んだ本」という項目を加えた。
ずっと以前に遡るのは大変だから、"Emotion Machine"以降に読んだものだけ載せてある。
Saturday, September 15, 2007
シェフ
水戸の中心街、とはいえ目立たないところにある一軒のワインバーが気に入っている。グラスで飲めるワインが日によって色々変わることと、料理の水準が高いことが理由。地下の小空間は、無機質なスタイリッシュさを狙っているようでいて適度な温かみがあり、居心地がいい。
久しぶりに昨日行ったのだが、女性ソムリエの表情がちょっと暗い。しかも、ぼくの1杯目のワインを決めたあとすぐに厨房に消えてしまい、出てこない。今まで見なかった男性スタッフが替わりにカウンターに立っている。
やがて戻ってきた彼女から出た言葉に驚いた。「シェフがやめてしまったんです。」
独特の風貌をした若いシェフだった。元々、ホテルのレストランで一緒に仕事をしていた男性ソムリエと共に独立し、このバーを開いたと聞いていた。(女性ソムリエはその後参画)
切れ味のいい料理が、ワイン、そしてこの空間に合っていた。ワインバーでは、ワインが主で料理は従のことが多いのだろうが、ここでは、組み合わせれば立派なディナーになる料理を出していた。サラダの野菜のしゃれた組み合わせや、肉や魚の絶妙の焼き加減には、毎回声を出さずにうなったものだ。前に食べた牡蠣のグラタンなど、火を通した牡蠣としてはぼくが食べた中で最高だった。
やめたと聞いた途端に、レストランに引き抜かれたかと思った。あれだけの腕だ、やっぱり形の上でも料理が主役の店を任されるのなら、そちらに行くかもしれないな、と。
しかし、そうではなかった。
子供がまだ1歳で、家庭を大事にしたい。深夜3時まで営業するこのバーではそれができない。深夜勤務のない、結婚式場に移ったのだという。
「それは残念だなあ」と、思わずソムリエールに言ってしまった。
「将来はレストランをやりたいという気持ちはあるようです。そのためにお金を貯めると言ってました」と彼女。志を捨てるのではもったいないというぼくの思いが見えたのだろう。
しかし、その後で、「でも、ああいうところで仕事をしていると、闘争心がしぼんでしまうんですよね」と付け足した。
決まりきった料理をいかに効率的にたくさん作るかが問われる職場なんかには、早く嫌気がさして飛び出してくれないか、などと、奥さんが聞いたら火を噴いて怒りそうな怪しからんことをつい思ってしまう。
自分では冒険をしないくせに、才能ある若者には冒険してほしいなんて、勝手極まりないのだが。
久しぶりに昨日行ったのだが、女性ソムリエの表情がちょっと暗い。しかも、ぼくの1杯目のワインを決めたあとすぐに厨房に消えてしまい、出てこない。今まで見なかった男性スタッフが替わりにカウンターに立っている。
やがて戻ってきた彼女から出た言葉に驚いた。「シェフがやめてしまったんです。」
独特の風貌をした若いシェフだった。元々、ホテルのレストランで一緒に仕事をしていた男性ソムリエと共に独立し、このバーを開いたと聞いていた。(女性ソムリエはその後参画)
切れ味のいい料理が、ワイン、そしてこの空間に合っていた。ワインバーでは、ワインが主で料理は従のことが多いのだろうが、ここでは、組み合わせれば立派なディナーになる料理を出していた。サラダの野菜のしゃれた組み合わせや、肉や魚の絶妙の焼き加減には、毎回声を出さずにうなったものだ。前に食べた牡蠣のグラタンなど、火を通した牡蠣としてはぼくが食べた中で最高だった。
やめたと聞いた途端に、レストランに引き抜かれたかと思った。あれだけの腕だ、やっぱり形の上でも料理が主役の店を任されるのなら、そちらに行くかもしれないな、と。
しかし、そうではなかった。
子供がまだ1歳で、家庭を大事にしたい。深夜3時まで営業するこのバーではそれができない。深夜勤務のない、結婚式場に移ったのだという。
「それは残念だなあ」と、思わずソムリエールに言ってしまった。
「将来はレストランをやりたいという気持ちはあるようです。そのためにお金を貯めると言ってました」と彼女。志を捨てるのではもったいないというぼくの思いが見えたのだろう。
しかし、その後で、「でも、ああいうところで仕事をしていると、闘争心がしぼんでしまうんですよね」と付け足した。
決まりきった料理をいかに効率的にたくさん作るかが問われる職場なんかには、早く嫌気がさして飛び出してくれないか、などと、奥さんが聞いたら火を噴いて怒りそうな怪しからんことをつい思ってしまう。
自分では冒険をしないくせに、才能ある若者には冒険してほしいなんて、勝手極まりないのだが。
Monday, September 10, 2007
航空ショー
元々、航空ファンでもミリタリーおたくでもないのだが、一度見る価値はあると奨められ、昨日、自衛隊百里基地の航空祭を見てきた。
なるほど、見る価値は十分にあった。
時速何百キロの戦闘機などが、はるか上空まであっという間に垂直に上昇したと思ったら今度は地上に向けてまっ逆さまに降下してくる、しかも、途中で軸に垂直に機体を回転までさせて。予定の飛行と分かっていても、このまま落ちてしまわないかと少し心配になるほど。かと思うと、天地をひっくり返して飛ぶ2機が目の前でクロスしたり、近接飛行しダイヤを形作る4機が一斉に翼を垂直にしたり、等々。
操縦技術のことは全く分からないが、例えば、時速150kmの自動車4台がダイヤを崩さずに曲線を描くことだって大変なこととしか思えないから、間違いなく非常に高度なのだと思う。口をぽかんと開けてただ見とれてしまうことが何度もあった。
かっこいいと言う言葉が合うのかも知れないが、それ以上に美しいと思った。
とともに、いつもの癖が出て、なぜ美しさを感じるのだろうと考えた。
一つには、高度な技能でしか為しえないことだから。あのスピードにおいて整然とした動きを作りだす技能に、美を感じるという面はある。
もう一つは、直線、曲線の大きさ。日常的なスケールをはるかに越えるものにも、我々は美を感じる。
そして、もう一つ、だいぶ見てから気づいたこと。空の奥行きが感じられるのだ。空が3次元であることは分かっているけれど、それがどれほどの奥行きを持った空間なのか、普段は経験することができない。凄まじいスピードで目の前からはるか向こうへ突き刺すように飛んでいく戦闘機を見ると、それが明白なのだ。視覚は常に移動体の速度と経過時間から、空間の延長を捉えようとしているのだろう。ふだんは捉えようがない延長を感じられる快感。これが美の知覚を生み出しているように思う。
なるほど、見る価値は十分にあった。
時速何百キロの戦闘機などが、はるか上空まであっという間に垂直に上昇したと思ったら今度は地上に向けてまっ逆さまに降下してくる、しかも、途中で軸に垂直に機体を回転までさせて。予定の飛行と分かっていても、このまま落ちてしまわないかと少し心配になるほど。かと思うと、天地をひっくり返して飛ぶ2機が目の前でクロスしたり、近接飛行しダイヤを形作る4機が一斉に翼を垂直にしたり、等々。
操縦技術のことは全く分からないが、例えば、時速150kmの自動車4台がダイヤを崩さずに曲線を描くことだって大変なこととしか思えないから、間違いなく非常に高度なのだと思う。口をぽかんと開けてただ見とれてしまうことが何度もあった。
かっこいいと言う言葉が合うのかも知れないが、それ以上に美しいと思った。
とともに、いつもの癖が出て、なぜ美しさを感じるのだろうと考えた。
一つには、高度な技能でしか為しえないことだから。あのスピードにおいて整然とした動きを作りだす技能に、美を感じるという面はある。
もう一つは、直線、曲線の大きさ。日常的なスケールをはるかに越えるものにも、我々は美を感じる。
そして、もう一つ、だいぶ見てから気づいたこと。空の奥行きが感じられるのだ。空が3次元であることは分かっているけれど、それがどれほどの奥行きを持った空間なのか、普段は経験することができない。凄まじいスピードで目の前からはるか向こうへ突き刺すように飛んでいく戦闘機を見ると、それが明白なのだ。視覚は常に移動体の速度と経過時間から、空間の延長を捉えようとしているのだろう。ふだんは捉えようがない延長を感じられる快感。これが美の知覚を生み出しているように思う。
Sunday, July 08, 2007
ようやく読了 - Emotion Machine -
Marvin Minskyの"Emotion Machine"を読み終えた。年頭には4月末までに読み終えるという目標を立てたのだが2ヶ月以上遅れた。そもそも、この本に向かう日が少なかった。読みやすいとはいえやはり原書、ある程度の気力がないと本を開く気にならない。平日はほとんど読まず、週末も疲れている時には手を伸ばさなかった。半年がかりとは情けないが、ともかく読了できたのだからよしとするか。
分からない単語を推測で読み進んだところ、文意を取れないまま先に進んでしまったところも多々あり、内容の理解は6割程度というところだろう。それでも、これは極めて重要な本だと言い切れる。
2000年以上数多の哲学者が迷い込んだ道からの出口が、ここにあるのではないか。十分にそう期待できる。そこを出て新たに進む探求の道も途方もなく複雑で険しいことは、ミンスキーの示唆する通りなのだろうが。
ミンスキーは、この本を後輩研究者たちに捧げるヒント集として企図したようであり、明解な結論というものはない。語られているのは多くの仮説であるが、実に豊かな仮説である。数学におけるヒルベルトの問題のように。
従来simpleだと考えられていた心の働き、例えばfeelというようなものも、実は、多様な働きを一つの言葉で表現してしまっている、そこから迷妄が始まるとミンスキーは喝破する。Iとかselfとかconciousとか、みんなsuitcase wordなのだと。
都市においては商業、消防、教育、交通、上下水道等々の多様な機能が同時に働いている。それが様々な仕組みによってある程度統率されているからといって、都市にselfがあるというだろうか、ミンスキーはそう問うのだ。
脳について理解するには、多様な働きを一つ一つ解きほぐすしか道はないとミンスキーは考える。原始の生命においては環境に対し反射するだけだったものが、環境の変化に対応するために脳は進化を続けた、その結果我々の脳は、異なる方向を目指す複数の動きがあるときにそれらを統御する仕組みとか、一つの働きが脳全体を占領してしまう危険を避ける仕組みなどをも備えている。(こう書くとフロイトだって言っていることのようであり、実際にフロイトもかなり引用されているのだが、ミンスキーはフロイトが説いた心の働きも、脳というmachineの中の細々した様々な働きが多層的に組み立てられたものとしてさらに徹底的に解明しようとしている。)
こういうことまで含めて一つ一つを解きほぐし、その関係を明らかにするしかないのだ、それをselfとかの言葉でくくってしまうのではmagicを残したままであり、scienceではない、というのがミンスキーの姿勢である。
そして、本当に脳を理解するには、我々自身がposthuman brainを作るという試行錯誤を繰り返す中で、様々な発見をしていくしかないというのが、AIの父ミンスキーの結語である。
脳の探求というテーマを離れても、家庭教育(というかそれ以前の、親の子に対する態度)が脳の発達に与える決定的な影響についての部分は、印象的だった。こういうことを意識すると、親というのは実に大変なものなのだった、今さら手遅れだが。
そう遠くない時期に、もう一度読もう。次は7割理解できるだろう。"Society of Mind"も今度は原書で読もう。それぞれを何度か読み、関連する論文をいくつか読めば、ぼくの脳、心に対する理解はだいぶ進むと思う。そしてそのことにより、哲学がテーマとして取り上げなくてもいいことと取り上げるべきことの整理も多少できるのではないか。そうなったら、だいぶ安らかに晩年を過ごせそうだ。
分からない単語を推測で読み進んだところ、文意を取れないまま先に進んでしまったところも多々あり、内容の理解は6割程度というところだろう。それでも、これは極めて重要な本だと言い切れる。
2000年以上数多の哲学者が迷い込んだ道からの出口が、ここにあるのではないか。十分にそう期待できる。そこを出て新たに進む探求の道も途方もなく複雑で険しいことは、ミンスキーの示唆する通りなのだろうが。
ミンスキーは、この本を後輩研究者たちに捧げるヒント集として企図したようであり、明解な結論というものはない。語られているのは多くの仮説であるが、実に豊かな仮説である。数学におけるヒルベルトの問題のように。
従来simpleだと考えられていた心の働き、例えばfeelというようなものも、実は、多様な働きを一つの言葉で表現してしまっている、そこから迷妄が始まるとミンスキーは喝破する。Iとかselfとかconciousとか、みんなsuitcase wordなのだと。
都市においては商業、消防、教育、交通、上下水道等々の多様な機能が同時に働いている。それが様々な仕組みによってある程度統率されているからといって、都市にselfがあるというだろうか、ミンスキーはそう問うのだ。
脳について理解するには、多様な働きを一つ一つ解きほぐすしか道はないとミンスキーは考える。原始の生命においては環境に対し反射するだけだったものが、環境の変化に対応するために脳は進化を続けた、その結果我々の脳は、異なる方向を目指す複数の動きがあるときにそれらを統御する仕組みとか、一つの働きが脳全体を占領してしまう危険を避ける仕組みなどをも備えている。(こう書くとフロイトだって言っていることのようであり、実際にフロイトもかなり引用されているのだが、ミンスキーはフロイトが説いた心の働きも、脳というmachineの中の細々した様々な働きが多層的に組み立てられたものとしてさらに徹底的に解明しようとしている。)
こういうことまで含めて一つ一つを解きほぐし、その関係を明らかにするしかないのだ、それをselfとかの言葉でくくってしまうのではmagicを残したままであり、scienceではない、というのがミンスキーの姿勢である。
そして、本当に脳を理解するには、我々自身がposthuman brainを作るという試行錯誤を繰り返す中で、様々な発見をしていくしかないというのが、AIの父ミンスキーの結語である。
脳の探求というテーマを離れても、家庭教育(というかそれ以前の、親の子に対する態度)が脳の発達に与える決定的な影響についての部分は、印象的だった。こういうことを意識すると、親というのは実に大変なものなのだった、今さら手遅れだが。
そう遠くない時期に、もう一度読もう。次は7割理解できるだろう。"Society of Mind"も今度は原書で読もう。それぞれを何度か読み、関連する論文をいくつか読めば、ぼくの脳、心に対する理解はだいぶ進むと思う。そしてそのことにより、哲学がテーマとして取り上げなくてもいいことと取り上げるべきことの整理も多少できるのではないか。そうなったら、だいぶ安らかに晩年を過ごせそうだ。
Friday, June 08, 2007
粋
iPodの「トップレート」(自分が高評価を与えた曲)を聴いていくと、面白い並びになるところがある。
Lee KonitzのKary's Trance.(何度も録音しているが、"Inside Hi-Fi"のもの。)
Lester YoungのAll of me.(iTunes storeの"Lester Swings"からiPodへ。元々は、"Pres And Teddy"のもの?)
Matt DennisのCompared to you.
どれを聴いても、粋だなあ、と思う。一方で、粋という言葉があてはまることは共通でも、粋さのありようは三者三様だなとも思う。
場所で喩えるなら、Lee Konitzは、ニューヨーク、午前0時過ぎのバーというところ。Lester Youngは、柳橋(行ったことないけど)、午後10時のお座敷。Matt Dennisは赤坂、午前2時のクラブ。
服で喩えるなら、Leeはジャケット、ノータイ。Lesterは和服。Mattはスーツ、ただし、ネクタイを少し緩めている。
では、粋という言葉で表現される三者の共通性とは何なのか。一つには余裕。余力を残して、なお高いレベルで演奏している。むきになったりしない。もう一つは、立ち位置が世間一般から見ての真ん中ではないこと、それでいて、世の中がよく見える場所に立っていること。
iPodでMattの次に出てくるのは、Sonny CrissのAll the Things You Are. これも大好きなのだが、粋とは感じない。力を出し尽くしているわけではなく、余力はあるのだが、真正面からぐいぐい押しまくる演奏。
同じ理由で、晩年のJohn Coltraneも粋じゃないということになる。Miles Davisは、別の理由、つまりメイン・ストリームのど真ん中すぎて、やっぱり粋じゃない。
思いつき。コンピュータに音楽を聴かせて、粋か粋でないか判定させようとしたら、現代の科学の粋を集めてなお足りないかもしれないな。コンピュータ独自の判断というのではなく、実在の人間A氏がこの曲を粋と思うかどうか判定せよ、という問題の立て方の方がよいかもしれない。
Lee KonitzのKary's Trance.(何度も録音しているが、"Inside Hi-Fi"のもの。)
Lester YoungのAll of me.(iTunes storeの"Lester Swings"からiPodへ。元々は、"Pres And Teddy"のもの?)
Matt DennisのCompared to you.
どれを聴いても、粋だなあ、と思う。一方で、粋という言葉があてはまることは共通でも、粋さのありようは三者三様だなとも思う。
場所で喩えるなら、Lee Konitzは、ニューヨーク、午前0時過ぎのバーというところ。Lester Youngは、柳橋(行ったことないけど)、午後10時のお座敷。Matt Dennisは赤坂、午前2時のクラブ。
服で喩えるなら、Leeはジャケット、ノータイ。Lesterは和服。Mattはスーツ、ただし、ネクタイを少し緩めている。
では、粋という言葉で表現される三者の共通性とは何なのか。一つには余裕。余力を残して、なお高いレベルで演奏している。むきになったりしない。もう一つは、立ち位置が世間一般から見ての真ん中ではないこと、それでいて、世の中がよく見える場所に立っていること。
iPodでMattの次に出てくるのは、Sonny CrissのAll the Things You Are. これも大好きなのだが、粋とは感じない。力を出し尽くしているわけではなく、余力はあるのだが、真正面からぐいぐい押しまくる演奏。
同じ理由で、晩年のJohn Coltraneも粋じゃないということになる。Miles Davisは、別の理由、つまりメイン・ストリームのど真ん中すぎて、やっぱり粋じゃない。
思いつき。コンピュータに音楽を聴かせて、粋か粋でないか判定させようとしたら、現代の科学の粋を集めてなお足りないかもしれないな。コンピュータ独自の判断というのではなく、実在の人間A氏がこの曲を粋と思うかどうか判定せよ、という問題の立て方の方がよいかもしれない。
Saturday, May 19, 2007
Sunday, April 29, 2007
Chi va piano
城山三郎が著書の中で紹介しているという「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」という言葉を知った(「フォーサイト」2007.5月号)。ワルラスが好んだ言葉だという。
前日、これとは全く反対のことをしてしまった悔いもあり、胸に沁みた。座右の銘はと聞かれたら、これにしようか。
原文はどうなのかが気になり、グーグルに打ち込むと答はすぐ出た。
“Chi va piano, va sano; chi va sano, va lontano.”
ワルラスだけではなく、パレートも言っているらしい。
もともとイタリアの諺に、"Chi va piano, va sano e va lontano."というのがあり、それをワルラスやパレートが好んだということのようだ。
pianoの日本語訳は「静かに」か「ゆっくり」がほとんどだが、自動翻訳では「身を低くして」とも出るらしい。
ネット上のItalian-English辞書を見ると、これらを包含したような語感のように思える。
http://www.wordreference.com/iten/piano
であれば、座右の銘は、原語のままにしよう。
"Chi va piano, va sano e va lontano."
前日、これとは全く反対のことをしてしまった悔いもあり、胸に沁みた。座右の銘はと聞かれたら、これにしようか。
原文はどうなのかが気になり、グーグルに打ち込むと答はすぐ出た。
“Chi va piano, va sano; chi va sano, va lontano.”
ワルラスだけではなく、パレートも言っているらしい。
もともとイタリアの諺に、"Chi va piano, va sano e va lontano."というのがあり、それをワルラスやパレートが好んだということのようだ。
pianoの日本語訳は「静かに」か「ゆっくり」がほとんどだが、自動翻訳では「身を低くして」とも出るらしい。
ネット上のItalian-English辞書を見ると、これらを包含したような語感のように思える。
http://www.wordreference.com/iten/piano
であれば、座右の銘は、原語のままにしよう。
"Chi va piano, va sano e va lontano."
Wednesday, April 11, 2007
Tuesday, April 03, 2007
増嵩
読みが「ぞうすう」だとは知らなかった。ずっと「ぞうこう」だと思い込んでいた。
かなり恥ずかしい。
でも、知らないまま終わってしまうよりはよかったと思うことにしよう。
幸い、人前でこの言葉を読んだことはなかったような気がするし。
かなり恥ずかしい。
でも、知らないまま終わってしまうよりはよかったと思うことにしよう。
幸い、人前でこの言葉を読んだことはなかったような気がするし。
Saturday, March 24, 2007
コストコ
コストコに初めて行った(多摩境店)。国内の大型店では、久しぶりに新鮮な驚き。
そもそも会費制というところからカルチャーショックだし、会員登録の女性スタッフがアメリカっぽい日本人で、入店前から非日常的な気分になれる。
店舗は大型倉庫のイメージ、そこに、デジカメ、液晶テレビ、包丁、洗剤、キャンプセット、Tシャツ、ジーンズ、肉、パン、野菜、酒、等々生活関連の様々な分野、何百というアイテムの商品が置かれている。こう書くとスーパーと変わらないようだが、大違いで、一言で言えば、でかい。例えば、洗剤なら、アメリカスケールのボトルが10本だか12本だかのセットになっているし、パンなら、4人家族では3日かかりそうな数が一つの袋にはいっている。包丁なども10本以上のセット売り。ピザなどは日本のオーブンにはそもそも入らないサイズだ。
単価を考えるとかなり安く、惹かれるのだが、こんなに買っちゃって使いきれるのか、食べきれるのかというものばかり。
結局、買ったのはミネラルウォーターと、ワイン、ブランデー。悪くならないし、飲みきることは間違いないから。
そもそも会費制というところからカルチャーショックだし、会員登録の女性スタッフがアメリカっぽい日本人で、入店前から非日常的な気分になれる。
店舗は大型倉庫のイメージ、そこに、デジカメ、液晶テレビ、包丁、洗剤、キャンプセット、Tシャツ、ジーンズ、肉、パン、野菜、酒、等々生活関連の様々な分野、何百というアイテムの商品が置かれている。こう書くとスーパーと変わらないようだが、大違いで、一言で言えば、でかい。例えば、洗剤なら、アメリカスケールのボトルが10本だか12本だかのセットになっているし、パンなら、4人家族では3日かかりそうな数が一つの袋にはいっている。包丁なども10本以上のセット売り。ピザなどは日本のオーブンにはそもそも入らないサイズだ。
単価を考えるとかなり安く、惹かれるのだが、こんなに買っちゃって使いきれるのか、食べきれるのかというものばかり。
結局、買ったのはミネラルウォーターと、ワイン、ブランデー。悪くならないし、飲みきることは間違いないから。
Wednesday, March 07, 2007
緊張対策
人前で話をしなければならない時など、やはり緊張する。緊張は重要な場面で力を出すための生体反応だろうから、適度な緊張は望ましくもあるわけだが、過度になると出だしの言葉さえうまく出なかったりして具合が悪い。
対策として一番使っているのは深呼吸。その昔、受験生だったころは自己催眠もよく使ったが、目を開けていなければならない時にはなかなかかからないので、この頃はあまり使わない。
深呼吸は簡単だが、頭の中の張り詰めた感じまではなかなか解けない。
その点、最近使ってる手は結構効く。頭の中で歌を口ずさむ(?)のだ。黙読の音楽版。
どんな歌でもいいわけではない。明るく弾むような音楽が合うかというと、さにあらず。実際の心のありようとかけ離れていてはダメなのだ。
マイ・ベストは"I gotta right to sing the blues." ビリー・ホリデイの歌で何百回と聴いてきた曲だ。鬱々とした基調と、ズンズンズンと静かにしかし一種の強さを持って打たれる3拍の重ね方の妙、この辺が脳にうまく働いているような気がする。
本題から外れるが、歌詞はこうだ。
I gotta right to sing the blues
I gotta right to moan inside
I gotta right to sit and cry
Down around the river
A certain man in this little town
Keeps draggin my poor heart around
All I see for me is misery
(繰り返し)
Soon that deep blue sea
Will be callin me
It must be love say what you choose
I gotta right to sing the blues
I gotta right to sing the blues
(歌詞 Ted Koehler)
"gotta right to"はどう日本語に訳したらいいのだろう。恥ずかしながら、初め聴いた時は(ブルースを歌う)「権利を得た」ととりそうになったが、もちろん大間違い。gottaはhave to、rightはすぐに、とか、本当に、といった意味の副詞だろうから、「ブルースを歌うしかないわ」といったところか。
対策として一番使っているのは深呼吸。その昔、受験生だったころは自己催眠もよく使ったが、目を開けていなければならない時にはなかなかかからないので、この頃はあまり使わない。
深呼吸は簡単だが、頭の中の張り詰めた感じまではなかなか解けない。
その点、最近使ってる手は結構効く。頭の中で歌を口ずさむ(?)のだ。黙読の音楽版。
どんな歌でもいいわけではない。明るく弾むような音楽が合うかというと、さにあらず。実際の心のありようとかけ離れていてはダメなのだ。
マイ・ベストは"I gotta right to sing the blues." ビリー・ホリデイの歌で何百回と聴いてきた曲だ。鬱々とした基調と、ズンズンズンと静かにしかし一種の強さを持って打たれる3拍の重ね方の妙、この辺が脳にうまく働いているような気がする。
本題から外れるが、歌詞はこうだ。
I gotta right to sing the blues
I gotta right to moan inside
I gotta right to sit and cry
Down around the river
A certain man in this little town
Keeps draggin my poor heart around
All I see for me is misery
(繰り返し)
Soon that deep blue sea
Will be callin me
It must be love say what you choose
I gotta right to sing the blues
I gotta right to sing the blues
(歌詞 Ted Koehler)
"gotta right to"はどう日本語に訳したらいいのだろう。恥ずかしながら、初め聴いた時は(ブルースを歌う)「権利を得た」ととりそうになったが、もちろん大間違い。gottaはhave to、rightはすぐに、とか、本当に、といった意味の副詞だろうから、「ブルースを歌うしかないわ」といったところか。
Thursday, February 01, 2007
松屋で
ホテルに泊まった翌朝はコンビニおにぎりになってしまうことが多いのだが、たまにはあったかいごはんを食べようと、松屋へ。牛めし・豚汁定食。なんで朝からこんなメニューを選んでしまったのだろう、牛めしというだけでも十分朝らしくないのに、豚汁までつけるとは、などと自省(笑)しつつ黙々食べていた。
(まあ、考えるのが面倒で、チケット販売機の一番左上にあったボタンを押したからなのだが。)
あれ、っと思った。なじみのある曲がBGMとしてかかっている。
ジョアン・ジルベルト!
2月の朝7時、牛めしと豚汁を食べながら聴くジョアン。いやはや、これだけ妙な組み合わせもそうはないだろうな。
(まあ、考えるのが面倒で、チケット販売機の一番左上にあったボタンを押したからなのだが。)
あれ、っと思った。なじみのある曲がBGMとしてかかっている。
ジョアン・ジルベルト!
2月の朝7時、牛めしと豚汁を食べながら聴くジョアン。いやはや、これだけ妙な組み合わせもそうはないだろうな。
Tuesday, January 23, 2007
"My Romance"
Carmen McRaeは、言うまでもなく素晴らしい歌手だ。ただ、ぼくの場合は、彼女の歌うBillie Holidayのレパートリーをどうしても本人のものと比べてしまうので、Aにマイナスをつけてしまう。Billieは全く別格なのだから、Carmenには申し訳ないのだが。
というわけで、ぼくがCarmenの真価を理解するのは、Billieが歌わないような曲を聴くとき。例えば、"My Romance"。少しも奇を衒わず、丁寧に、しみじみと歌う。歌詞の一つ一つが、素直に胸にしみこんでくる。
My romance doesn't have to have a moon in the sky
My romance doesn't need a blue lagoon standing by
No month of may, no twinkling stars
No hide away, no softly guitars
My romance doesn't need a castle rising in Spain
Nor a dance to a constantly surprising refrain
Wide awake I can make my most fantastic dreams come true
My romance doesn't need a thing but you
My romance doesn't need a thing but you
この歌詞、not, not, no, noと続けておいて最後にbut youと来る。強調の見本のようだけれど、ありきたりの感じがしないのは、blue lagoonとか、Spainのcastleとか、いかにもロマンティックそうなイメージの喚起のしかたがうまいからなのだろうな。
(中学の英語で、not butの構文を勉強する時に使ったら、生徒たち喜んで覚えるかも。)
というわけで、ぼくがCarmenの真価を理解するのは、Billieが歌わないような曲を聴くとき。例えば、"My Romance"。少しも奇を衒わず、丁寧に、しみじみと歌う。歌詞の一つ一つが、素直に胸にしみこんでくる。
My romance doesn't have to have a moon in the sky
My romance doesn't need a blue lagoon standing by
No month of may, no twinkling stars
No hide away, no softly guitars
My romance doesn't need a castle rising in Spain
Nor a dance to a constantly surprising refrain
Wide awake I can make my most fantastic dreams come true
My romance doesn't need a thing but you
My romance doesn't need a thing but you
この歌詞、not, not, no, noと続けておいて最後にbut youと来る。強調の見本のようだけれど、ありきたりの感じがしないのは、blue lagoonとか、Spainのcastleとか、いかにもロマンティックそうなイメージの喚起のしかたがうまいからなのだろうな。
(中学の英語で、not butの構文を勉強する時に使ったら、生徒たち喜んで覚えるかも。)
Friday, January 05, 2007
当面の方針
1 "Emotion Machine"を読む。読了目標2007年4月30日。(週平均30ページ)
2 安酒は飲まない。境界は日本酒換算720mlあたり2000円。(43度のウィスキーなら分量3倍と見る)
3 blogを介しての友人を2桁に増やす。
2 安酒は飲まない。境界は日本酒換算720mlあたり2000円。(43度のウィスキーなら分量3倍と見る)
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