Sunday, June 14, 2009

twitter

twitterに入った。
初めは、なんだこれは、一体それがどうしたというんだ、という印象だったが、合点のいかないまま今やっていることを書き込み、いつの間にかフォローしてくる人をフォローしてその人の書き込みを読んだりしているうちに、これはもしかするとかなり面白いかもしれないという気がしてきた。
同時性がポイントなのだろう。ネットで知り合ったばかりの人なのに、今彼/彼女が何をしているか、考えているかが即時分かる。これまでのSNSでもそのように使えたのだろうが、メッセージが短い分、即座にパッと伝わる感じがある。
また、自分と同じ関心を持っている人を見つける時にも、これまでのSNSよりスピード感がある。
今、色々試しているところ。

Wednesday, June 10, 2009

メモ帳

昨日の続き。
従来の、google notebookに書いてきたものは、名前を改め「哲学?メモ帳」とした。リンクは右欄からどうぞ。

Tuesday, June 09, 2009

webノート

「哲学ノート」は断片の物置のようなものであるが、少しは整理された形で全体をまとめてみたいという気持ちもある。最終的には、本のように一次元の軸上に並べるのがいいのだろうが、まだそこまでは断片同士の関係が整理できていない。そこでとりあえず、webのリンク機能を使って、ツリー上に編集する試みを始めた。(こちらを参照)
google sitesを利用している。

ただ、これまでの断片をそのままコピーするのでは、さほどの整理にはならないから、メモを参照しつつ一部引用したり、書き換えたり、時には新しく書いたりするのがいいのだと思う。どこまでやれるかは分からないが、試してみる。

「哲学ノート2」メモ

指定(指示)機能について
・ニュータウンに住む5歳のA君が、幼稚園の友達B君に「今度の日曜日にぼくの家においでよ」と誘ったとする。B君に「うん、行くよ。Aちゃんのうちはどこなの」と聞かれ、「富士見ヶ丘ニュータウンのね、入り口の脇に車がとめてあって、それから小さなポストがあって、ベランダに花がある家だよ。」と答えたとする。B君は、「分かった。じゃあ日曜日に行くね」と約束するだろう。
・日曜日に親の運転する車に乗せられたB君は富士見ヶ丘ニュータウンまでは難なく辿り着いたが、A君の説明のような家がたくさんあるのを見て、困惑する。結局B君の親がA君の親に電話をすることになるだろう。
・A君の親の説明は色々考えられる。「ニュータウンの入り口から入って3番目の交差点を右に曲がり、2つ目のブロックの中で、一つだけ屋根が赤い家があります。」とか、「このニュータウンはブロックごとに名前がついていて、ここは、サクラです。ブロック毎に住宅に番号が振られているので、サクラの17を探して下さい。」とか。

・家を特定する表現は実は難しい。多くの場合、あるエリアには似たような概観の家が並ぶからだ。ニュータウンにはニュータウン風の、農村には農村風の家が。
・ニュータウンに一戸だけ茅葺きの家があったら、特定するのは簡単だ。
・結局、指示にとって必要なのは、他の個体との差異である。
・何番目の角を曲がって幾つ目というような表現は、全ての個体に空間上の特定の座標を与えることにより、人工的に差異を設けることである。ブロックの名前と住宅の番号をつけることも、人工的に差異を設けることである。
・(どちらが優れているかは、ケースバイケースというしかないが、京都もニューヨークも座標と固有名を併用していることを見ると、座標的指示だけでは何か人間には不便があるのかもしれない。)

・あるブロックに固有の名前をつけることは言語の方法そのものであるし、座標や固有番号による特定も、記号を用いるという点で、言語の方法を拡大適用していると言える。
・われわれ人間は、対象を特定するためにこのような言語ないし拡大言語を用いることに慣れきっている。それ以外に対象を特定する方法などあるだろうかとさえ思う。しかし、対象を特定することは、言語的方法によらずとも可能である。
・例えば、犬も猫も、何キロも離れたところまで遊びに行ってしまっても、ちゃんと飼い主の家に帰れる。
・これは、景色やルートについての何らかの記憶なのだろうか。
・犬の場合は、臭いによって対象に辿り着く可能性も高いだろう。B君の飼い犬にA君の臭いを覚えさせれば、ニュータウンに降りたところから臭いを辿ってA君宅に行き着くかもしれない。

・ヒトは、嗅覚という対象を把握する直接感覚が衰えてしまったがために、記号を介して対象に辿り着くしかなくなったとも言えるのではないか。

Monday, June 08, 2009

「哲学ノート2」メモ

・音の世界もまた、圧倒的に豊かである。
・散歩をしていて聞こえる様々な音。見えないけれど前の方から電車が近づいてくる。まだ、かなり離れている。これも姿は見えないが、真上よりやや左後方、それほど高いところではないところで鳥が鳴いている。一点に止まっているわけではないが、大きく旋回しているわけでもない。何か危機を察知しているといった声ではなく、平時の声。足下では水の流れる音。人工の小さな水路が見えているが、そこの音だ。仮にその水路が見えなくても、これが大きな川でないこと、急流でもないことなどは明らかな音。
・音は、それが何の音であるか、どこから発せられているのかを我々に示している。
・さらに、電車の音は、そちらに近づいては行けないことを我々に示す。アフォーダンス理論では、近づいては危険であることをアフォードしている、ということになるだろう。
・平和な小鳥の囀りは、我々にそのまま穏やかな気持ちでいていいことをアフォードするが、これが数羽のカラスのけたたましい鳴き声であったら、もしかしたら手にもった食べ物が狙われるかもしれないから警戒すべき状況であることをアフォードするだろう。

・言葉の発生において、この、音のアフォーダンスが大きな意味を持っていると考えられる。

・音がアフォーダンスを持つのは、我々の生活場面においてその音が独立に存在するのでなく、ある生活場面を構成する関連し合った要素の一つとして存在するからである。
・(「生活場面を構成する関連し合った要素」。もっと磨き上げた表現はあるだろうが、概念自体は、本考察の鍵になるものと言える。)

・音楽が人に感動をもたらすことと、音のアフォーダンスは、無関係ではあるまい。明示的にある場面を音で表現する音楽は言うまでもなく、抽象度の高い音楽においても、ある音の配列、高さ、強弱の変化等は、我々の先祖を警戒させ、安心させ、喜ばせた、何らかの生活場面における音との類似性を持っているのではないか。

Friday, June 05, 2009

「哲学ノート2」メモ

言語が世界を把握する上で重要な機能は、言語が対象を指示・指定することである。
しかし、この対象指示(指定)機能には大きな限界もある。例えば我々の身体部分を指す言葉を考えても、肩とはどこまでを指すのか、頬と顎の境はどこなのかなどということは定まっていない。同じように、今日は暑い、暖かいというとき、その境がどこにあるのかは決まっていない。

この限界は、言語の発生過程を考えれば、当然ともいえる。言語は、言語だけの世界で意味を持つものではない。我々の先祖が生活の場面で色々と音声を発する中で、ある場面で特有の音声を発すればそれまでより便利なことがあることに気づき、その特有の音声を発する習慣がグループの中で定着した、それが言語の起源であろう。言語は生きていく上でいくばくかの便益をもたらすものとして徐々に発見され育てられたものであり、初めから対象を正確に描写することなどを目的として生み出されたものではない。

生きていく上では、言語の対象指示(指定)機能に限界があることは、さほどの問題とはならない。
我々の祖先が家族で獲物の肉を食べているとする。父親が子供に「お前には肩のところをやる」と言ったとして、「肩」というのがどこまでを指すのか、境界線を引く必要はない。ただし、子供が腰の肉をとろうとしたら、「そこは肩じゃないよ、腰だ」と教えてやる必要があるだろう。

そもそも、言葉が、このような「部分」を指すようになったのは、発生的には後なのであろう。それに先だって、個体を指す言葉があっただろう。例えば、「ライオン!」的な発声である。さらにそれに先だって、「ウオー」だか「ギャー」だかは分からないが、警告の発声があっただろう。その声を聞いてグループの成員が逃げ出せば、この発声は役目を果たしたことになる。しかし、ライオンとウサギを発声上区別できた方が、生きていく上では便利である。「ライオン!」なら逃げるが「ウサギ!」なら追いかけるわけである。

Wednesday, June 03, 2009

「哲学ノート2」メモ

(これまでの「哲学ノート2」はここ。)

杖を私の身体の延長と捉えられるのは、私が杖を操作できるからである。私は私の身体を、私に感覚をもたらすものというだけではなく、私が私の意志で動かしているものとして、捉えている。
従って、私と薬缶の間にある空気は、仮に熱の感覚を私にもたらす媒体であってその点で杖と同様だと言えたとしても、私が私の意志で動かせない以上、私の身体として捉えられることはないのである。

竹馬の名人は、竹馬を自在に操りかつ先端から地面の感触を得ている。従って、彼にとって竹馬は自分の身体の一部に近いものと捉えられているだろう。自分の身体とどこが違うかといえば、分離されることがある点である。(もし、分離される時に強烈な痛みが伴えば、自分の足同然ということになる。)

Tuesday, June 02, 2009

植物工場

この一月の間に、植物工場を2か所見た。どちらも浅いプールに発砲スチロール(?)の板を浮かべ、その板にあけた穴に野菜を挿して育てるやり方。プールには、必要な栄養が含まれた水が入れられていて、濃度管理を自動的に行う。
違いの一つは、スペースの使い方。一方は言わば平屋で、大きなプールが一段あるだけだが、他方は言わばビルで、プールが棚状に7から9段設置されている。
もう一つの大きな違いは、一方は自然光併用、他方は人工光のみであるということ。人工光の方はほぼ完全密閉で、自然の光も空気も入らない。(酸素濃度が高くなりすぎるので二酸化炭素を注入するらしい。)
いずれも見てかなり面白いものだし、試食させてもらったレタスなどもとてもおいしい。露地ものと遜色ないどころか、こちらの方が上かとさえ思えるほど。
数年前に比べればコストもかなり下がったようで、外食産業や、百貨店、一部スーパーなど取引先も確保できてきているようだ。

畑での野菜づくりは非常に労力を要するし、天候次第で出来具合も相当に違ってしまう。植物工場には、そういう問題がない。また、無農薬であるということも大きな強みだろう。
結構なことばかりなのだが、どうもまだ、違和感が拭いきれない。
野菜が畑の土で作られなくていいのか、という素朴な思い。
大規模な密閉式の鶏舎が普通になり、一度も土の上を歩いていないニワトリを食べている時代に、そんな感傷めいた反応は似合わないのだとは分かっているが。

(612字)
 
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