シュタイナーの、視覚に対する聴覚優位を唱える説については、そういう面もあるかも知れないと思う点がある。
冬季オリンピックのフィギュアスケート出場直前の選手の中に、ヘッドフォンで音楽を聴いている者が少なくない。気持ちを落ち着かせる、集中させる、意欲を高める、色々の狙いはあるだろうがいずれにしても自分の心をコントロールするツールとして音楽を用いている。
これを視覚で行おうとしてもうまくいかないのだと思う。
自分のことを考えても、音楽で気持ちが高揚したり落ち着いたりすることはよくあるし、そのために聴くことも多い。動画や静止画でもそういう効果はあるのだが、持続しない。その画像を見ることをやめた途端に、一時的に高まった気持ちは変化してしまう。
胎児は、音を聴くことはできるが視覚像を見ることはできない。このことと関係があるような気もする。
Thursday, March 18, 2010
Saturday, March 13, 2010
"Habana Del Este" 続き
「色合い」というより、「味付け」と言った方がいいか。
一番近いたとえは、寿司かもしれない。リズムという寿司飯の上に、味の流れを綿密に組み立てたネタが乗っている。ネタがフルートやベースのフレーズだ。
フルートとベースの掛け合いは、寿司だったら白身、赤身、白身、赤身という食べ方?寿司でそれが旨いのかどうか、ちょっと分からないが。
一番近いたとえは、寿司かもしれない。リズムという寿司飯の上に、味の流れを綿密に組み立てたネタが乗っている。ネタがフルートやベースのフレーズだ。
フルートとベースの掛け合いは、寿司だったら白身、赤身、白身、赤身という食べ方?寿司でそれが旨いのかどうか、ちょっと分からないが。
Afro Cuban All Stars "Habana Del Este"
このところ毎日聴いている。聞き込むにつれ、すごさが分かってきた。初めは気楽にちゃかぽこやってるように思えるが、とんでもない。聴く者が陶然とするのは、大変な職人芸があってのことだ。
前半の、まるで日本の歌謡曲のような緩めのメロディーも、これがあるからこその後半の昂揚のように思える。その昂揚が生まれる基底には、比較的単純なリズムの繰り返しがあるわけだが、リズムに付けられた言わば色合いが変わっていくことが重要なのだと思われる。今度はどんな色合いになるんだろうという興味がずっと続くことになる。また、聴く者に適度に緊張を与えるものとして、普通の人の声域よりは少し高めだったり、少し低めだったりする楽器が使われているのだろう。繰り返しが昂揚を生み出すには、感覚を覚醒させるものが必要なのだ。
それにしても、このパーカッションの見事さ!エンディングの粋なこと!
前半の、まるで日本の歌謡曲のような緩めのメロディーも、これがあるからこその後半の昂揚のように思える。その昂揚が生まれる基底には、比較的単純なリズムの繰り返しがあるわけだが、リズムに付けられた言わば色合いが変わっていくことが重要なのだと思われる。今度はどんな色合いになるんだろうという興味がずっと続くことになる。また、聴く者に適度に緊張を与えるものとして、普通の人の声域よりは少し高めだったり、少し低めだったりする楽器が使われているのだろう。繰り返しが昂揚を生み出すには、感覚を覚醒させるものが必要なのだ。
それにしても、このパーカッションの見事さ!エンディングの粋なこと!
Monday, March 08, 2010
機械と感情(2)
M.ミンスキーに言わせれば、どんなに複雑であろうと、人間もまた機械であるとして扱うことに何ら不合理な点はない、ということになるだろう。人間に機械ではない要素を求めることの方が不合理であると。全ての要素とそれらを組み立てるための全ての規則さえ与えられれば、人間は組み立てられるのであって、そこに神秘的な力を持ち込むべきでないと。
もちろん、機械は初めから必要な能力を全て備えているとは限らず、学習によって獲得される能力があるということを、ミンスキーも否定しないだろう。否定しないどころか、その学習のプロセスこそAIの最大のテーマだろう。
では、感情を持つという能力は、機械が学習によって獲得できるものなのだろうか。
例えば、侮辱されて怒るという感情を持つためには、自分が侮辱されているという状況認識が必要である。そのためには、侮辱に用いられる言葉や、その言葉がまさに侮辱と理解される文脈といったknowledge baseが必要だろう。そこに、侮辱している人の表情などを加えればより認識の精度は高まる。
これなら、もしかすると、機械とAIの組合せでできるのではないか?人間が「今のは侮辱だぞ」ということをそのたびに機械に教えてやり、機械の方はAIを用いてknowledge baseを拡充していく。そして、侮辱されたと判断した時の自分の行動はプログラムしておく。もちろんそのプログラムは、侮辱の程度や状況を勘案するようにしておかないと、些細なからかいに対して拳銃を撃ったり、着飾った客人ばかりが座っている食卓をひっくり返したりしてしまう。
しかし、それでは、十分なknowledge baseと適切なプログラムに基づき、侮辱に対してもっともな怒りを見せるようになった機械は、感情を持っていると言えるのだろうか。
(続く)
もちろん、機械は初めから必要な能力を全て備えているとは限らず、学習によって獲得される能力があるということを、ミンスキーも否定しないだろう。否定しないどころか、その学習のプロセスこそAIの最大のテーマだろう。
では、感情を持つという能力は、機械が学習によって獲得できるものなのだろうか。
例えば、侮辱されて怒るという感情を持つためには、自分が侮辱されているという状況認識が必要である。そのためには、侮辱に用いられる言葉や、その言葉がまさに侮辱と理解される文脈といったknowledge baseが必要だろう。そこに、侮辱している人の表情などを加えればより認識の精度は高まる。
これなら、もしかすると、機械とAIの組合せでできるのではないか?人間が「今のは侮辱だぞ」ということをそのたびに機械に教えてやり、機械の方はAIを用いてknowledge baseを拡充していく。そして、侮辱されたと判断した時の自分の行動はプログラムしておく。もちろんそのプログラムは、侮辱の程度や状況を勘案するようにしておかないと、些細なからかいに対して拳銃を撃ったり、着飾った客人ばかりが座っている食卓をひっくり返したりしてしまう。
しかし、それでは、十分なknowledge baseと適切なプログラムに基づき、侮辱に対してもっともな怒りを見せるようになった機械は、感情を持っていると言えるのだろうか。
(続く)
Wednesday, March 03, 2010
機械と感情
コインを投入し欲しい商品のボタンを押すと、商品が出てくるのに合わせて「ありがとうございました」と発声する自動販売機がある。
この機械が「ありがとう」という気持ち、購入者に対する感謝の感情を持っていると考える人はまずいないだろう。
では、人が感謝の感情を持っていると、我々はどうやって判断するのか。「ありがとう」のような感謝の言葉が発せられるなど感謝表現が為されているかどうかは、一つの重要な判断根拠になる。また、その言葉が、感謝を示すのに適した状況で発せられているかどうかも、チェックされている。そのようなチェックを自分がしていることを、我々は通常あまり意識してはいないが、感謝表現に適さない状況、例えば悪態をつかれて「ありがとう」と言う人がいたら我々はそれは感謝ではないと判断することを考えれば、実はチェックしている。
この、感謝表現の有無、及び、感謝表現に適した状況かという二つのチェックポイントだけなら、先の自動販売機も「感謝の感情を持っている」と判断され得る。
しかし我々はそう判断しないのはなぜなのか。
感情を持つ主体には、一定の相貌がある、というのが我々の前提なのではないか。
同じ機械であっても、鉄腕アトムであれば、感情を持っているとしてもおかしくないと我々は思う。
(相貌は、単に顔かたちの問題ではなく、ふるまいも含めてのものである。)
動物の中でも哺乳類は感情を持っているように思えるが、魚類になると多くの人は「感情なし」と判断するのではないか(だからおどり食いができる)。
植物は感情を持たないとするのが普通の立場だろう。しかし、水やりを忘れて元気がなくなった植物に「ごめんね、喉が渇いてつらかったろうね」などと声をかける人は少なくない。この場合、その人たちは、植物のふるまいを、感情を持つものの相貌として捉えているのである。
一方で、感情を持っていてもおかしくない相貌を備えたターミネーターは、初めは感情を持たない機械として描かれている。主人に従うのはそうプログラムされているからであって主人に好意を持っているからではない。敵と戦うのもそうプログラムされているからであってその敵を憎んでいるからではない。どんなに見かけは人間そっくりでも、機械はやっぱり機械であって感情はないのだ、という考え方でこの映画は作られている。
ところが、最後にターミネーターは涙を見せるのだ。機械はどのようにして感情を持つに至るのか。この映画の答は「学習」である。人は感情を持っているのだということを少年が何度も教え、ターミネーターはそれを徐々に理解し、最後には自ら感情を持つということになっている。
ここで、真面目に問わなければならない。学習によって感情を持つに至る機械を作ることは可能か。
(続く)
この機械が「ありがとう」という気持ち、購入者に対する感謝の感情を持っていると考える人はまずいないだろう。
では、人が感謝の感情を持っていると、我々はどうやって判断するのか。「ありがとう」のような感謝の言葉が発せられるなど感謝表現が為されているかどうかは、一つの重要な判断根拠になる。また、その言葉が、感謝を示すのに適した状況で発せられているかどうかも、チェックされている。そのようなチェックを自分がしていることを、我々は通常あまり意識してはいないが、感謝表現に適さない状況、例えば悪態をつかれて「ありがとう」と言う人がいたら我々はそれは感謝ではないと判断することを考えれば、実はチェックしている。
この、感謝表現の有無、及び、感謝表現に適した状況かという二つのチェックポイントだけなら、先の自動販売機も「感謝の感情を持っている」と判断され得る。
しかし我々はそう判断しないのはなぜなのか。
感情を持つ主体には、一定の相貌がある、というのが我々の前提なのではないか。
同じ機械であっても、鉄腕アトムであれば、感情を持っているとしてもおかしくないと我々は思う。
(相貌は、単に顔かたちの問題ではなく、ふるまいも含めてのものである。)
動物の中でも哺乳類は感情を持っているように思えるが、魚類になると多くの人は「感情なし」と判断するのではないか(だからおどり食いができる)。
植物は感情を持たないとするのが普通の立場だろう。しかし、水やりを忘れて元気がなくなった植物に「ごめんね、喉が渇いてつらかったろうね」などと声をかける人は少なくない。この場合、その人たちは、植物のふるまいを、感情を持つものの相貌として捉えているのである。
一方で、感情を持っていてもおかしくない相貌を備えたターミネーターは、初めは感情を持たない機械として描かれている。主人に従うのはそうプログラムされているからであって主人に好意を持っているからではない。敵と戦うのもそうプログラムされているからであってその敵を憎んでいるからではない。どんなに見かけは人間そっくりでも、機械はやっぱり機械であって感情はないのだ、という考え方でこの映画は作られている。
ところが、最後にターミネーターは涙を見せるのだ。機械はどのようにして感情を持つに至るのか。この映画の答は「学習」である。人は感情を持っているのだということを少年が何度も教え、ターミネーターはそれを徐々に理解し、最後には自ら感情を持つということになっている。
ここで、真面目に問わなければならない。学習によって感情を持つに至る機械を作ることは可能か。
(続く)
Monday, March 01, 2010
機械は感覚を持つか。
人間が40度の風呂に入って「ちょうどよい温かさだな」と感じることと、温度計をその湯に入れたところ目盛りが40度を指すこととは、まるで違うことだ。温度計は、「ちょうどよい温かさだな」と感じているわけではない。われわれは、そう確信している。
では、その温度計に少し工作し、40度の湯に入れると「ちょうどよい温かさだな」と発声するようにしたらどうか。(この程度のセンサーと発声装置を備えたおもちゃなら今いくらでもあるだろう。)
それでもわれわれは、その機械(器具)が温かさの感覚を持っているとは思わないだろう。たとえその発声装置付き温度計の言うことがわれわれ自身の思いと一致したとしても。
機械には人と同じ感覚は持ち得ない、ということをわれわれはあたかも自明のように思っているということだろうか。
犬やアザラシに似せたロボットの人気のことを考えると、そうとばかりも言えないのではないか。われわれは、それらのロボットが実際の動物と同じ感覚は持っていないと頭では理解しつつ、あたかも同じ感覚を持っているかのような彼らの反応に喜んでいる。これは、ロボットが感覚を持つことを許容していることなのではないか。
さらに、どこからどう見ても人間としか見えないロボットが作られたとして、彼(それ)が風呂に入って「ちょうどよい温かさだな」と言ったとすれば、われわれはもちろん何の違和感も持たないだろう。彼はわれわれと同じような感覚を持っていると思うだろう。
では、その時、そのロボットが自分の胸をパカッと開けて中のメカニズムを見せてくれたらどうか。実は彼はロボットであったと知った時、我々は、彼は感覚を持っているふりをしていたのだと思うだけなのだろうか。
感覚を持つとは、我々と同じ脳や神経の機構を持つことが前提とされることなのだろうか。
しかし、我々自身、風呂に入った時の温かさの感覚とは一体何なのか、実は説明困難なのではないだろうか。
それは、機械がセンサーで温度を測り「何度です」とか「ちょうどよい温かさだな」と発言することと比べて、何が違うのだろうか。機械による測定・反応と比べ、何か別のものがそこにはあると我々は確信しているが、では、それは一体何なのだろうか。
では、その温度計に少し工作し、40度の湯に入れると「ちょうどよい温かさだな」と発声するようにしたらどうか。(この程度のセンサーと発声装置を備えたおもちゃなら今いくらでもあるだろう。)
それでもわれわれは、その機械(器具)が温かさの感覚を持っているとは思わないだろう。たとえその発声装置付き温度計の言うことがわれわれ自身の思いと一致したとしても。
機械には人と同じ感覚は持ち得ない、ということをわれわれはあたかも自明のように思っているということだろうか。
犬やアザラシに似せたロボットの人気のことを考えると、そうとばかりも言えないのではないか。われわれは、それらのロボットが実際の動物と同じ感覚は持っていないと頭では理解しつつ、あたかも同じ感覚を持っているかのような彼らの反応に喜んでいる。これは、ロボットが感覚を持つことを許容していることなのではないか。
さらに、どこからどう見ても人間としか見えないロボットが作られたとして、彼(それ)が風呂に入って「ちょうどよい温かさだな」と言ったとすれば、われわれはもちろん何の違和感も持たないだろう。彼はわれわれと同じような感覚を持っていると思うだろう。
では、その時、そのロボットが自分の胸をパカッと開けて中のメカニズムを見せてくれたらどうか。実は彼はロボットであったと知った時、我々は、彼は感覚を持っているふりをしていたのだと思うだけなのだろうか。
感覚を持つとは、我々と同じ脳や神経の機構を持つことが前提とされることなのだろうか。
しかし、我々自身、風呂に入った時の温かさの感覚とは一体何なのか、実は説明困難なのではないだろうか。
それは、機械がセンサーで温度を測り「何度です」とか「ちょうどよい温かさだな」と発言することと比べて、何が違うのだろうか。機械による測定・反応と比べ、何か別のものがそこにはあると我々は確信しているが、では、それは一体何なのだろうか。
Friday, February 12, 2010
俊寛
勘三郎の俊寛を見た。
最後の場面は、表現の巧みさといったこととは次元の違う、何か大変な所まで行っていた。
憎しみも悲嘆も絶望も、すーっと消えた、いやそうではなく、ふーっと昇華した、とでも表現するしかない境地。
そこに至る長い苦難の時間や直前の激しいやりとりを考えれば、およそ人間である限りそのような境地に達することはあり得ないようなものなのだが、そんな思いが浮かぶことすらなかった。ふーっと達した勘三郎/俊寛を、こちらはただ、ああ、と見つめるだけだった。
「何かが下りてきたよう」と言っていた人がいるが、そうなのかもしれない。追善公演で父親の当たり役に立ち向かう気迫が、何かを引き寄せたか。
最後の場面は、表現の巧みさといったこととは次元の違う、何か大変な所まで行っていた。
憎しみも悲嘆も絶望も、すーっと消えた、いやそうではなく、ふーっと昇華した、とでも表現するしかない境地。
そこに至る長い苦難の時間や直前の激しいやりとりを考えれば、およそ人間である限りそのような境地に達することはあり得ないようなものなのだが、そんな思いが浮かぶことすらなかった。ふーっと達した勘三郎/俊寛を、こちらはただ、ああ、と見つめるだけだった。
「何かが下りてきたよう」と言っていた人がいるが、そうなのかもしれない。追善公演で父親の当たり役に立ち向かう気迫が、何かを引き寄せたか。
Monday, February 08, 2010
プリウス問題
冷泉彰彦氏のレポートを読んで、プリウスのブレーキ問題の技術的な意味が初めて良く分かった。トヨタが、欠陥ではないとしてなかなかリコールに踏み切らなかった理由も。
[JMM569Sa]「プリウスを守り、改めてハイブリッド時代の再スタートへ」from911/USAレポート (今週末にはWEBに載ると思うが、今のところはメルマガ読者しか読めない。転載不可なのが残念)
回生ブレーキという、HVならではの高度な技術が用いられているのだが、これは従来のブレーキとはだいぶ様相の違った物なので、運転する側もその違いを十分に認識し、今までとは異なる運転の仕方を身につけなければならない、とのこと。トヨタは、その違いについて、運転者に対し分かりやすく説明する努力を怠ってきた、とも。
危険な物を作ってしまいごめんなさい、すぐ直しますから、という対応ではなく、この機会を活かし、HVの高度な技術について理解を深めてもらうべきだというのが冷泉氏の意見だ。
[JMM569Sa]「プリウスを守り、改めてハイブリッド時代の再スタートへ」from911/USAレポート (今週末にはWEBに載ると思うが、今のところはメルマガ読者しか読めない。転載不可なのが残念)
回生ブレーキという、HVならではの高度な技術が用いられているのだが、これは従来のブレーキとはだいぶ様相の違った物なので、運転する側もその違いを十分に認識し、今までとは異なる運転の仕方を身につけなければならない、とのこと。トヨタは、その違いについて、運転者に対し分かりやすく説明する努力を怠ってきた、とも。
危険な物を作ってしまいごめんなさい、すぐ直しますから、という対応ではなく、この機会を活かし、HVの高度な技術について理解を深めてもらうべきだというのが冷泉氏の意見だ。
"He's funny that way"
iPodにビリー・ホリデイの"He's funny that way"を入れてある。3枚のレコード作成のために録音された各2回のテイクで計6演奏。ビッグバンドでスウィングが2スタイル、ピアノトリオでバラード風が1スタイルと、レコードごとにスタイルが違うのだが、その違いがびっくりするほど。そしてまた、その3スタイルの中でのテイク毎の差の面白さ。だからジャズはやめられない。このところ、朝から通勤の車の中で聴いて一人でにやしやしている。
Once he dressed in tweads and drapes
On the rolls royce car
Now he seems quite out of place
Like a fallen star
While I worry
Plan and sceme
Over what to do
Can't help feeling
It's a dream
He's just too good to be true
I'm not much to look at
I'm nothing to see
I'm glad I'm living on a dime
And lucky to be
[ Find more Lyrics on http://mp3lyrics.org/cOM ]
But I've got a man crazy for me
He's funny that way
I ain't got a dollar
Can't save a cent
He doesn't hollar
He'd live in a tent
I've got that man mad about me
He's funny that way
Lord he loves work and slave
For me every day
He'd be so much better off
If I went away
But why should I leave him
Why should I go
He'd be un happy
Without me I know
I've got that man crazy for me
He's funny that way
( http://www.mp3lyrics.org/b/billie-holiday/hes-funny-that-way/ )
Once he dressed in tweads and drapes
On the rolls royce car
Now he seems quite out of place
Like a fallen star
While I worry
Plan and sceme
Over what to do
Can't help feeling
It's a dream
He's just too good to be true
I'm not much to look at
I'm nothing to see
I'm glad I'm living on a dime
And lucky to be
[ Find more Lyrics on http://mp3lyrics.org/cOM ]
But I've got a man crazy for me
He's funny that way
I ain't got a dollar
Can't save a cent
He doesn't hollar
He'd live in a tent
I've got that man mad about me
He's funny that way
Lord he loves work and slave
For me every day
He'd be so much better off
If I went away
But why should I leave him
Why should I go
He'd be un happy
Without me I know
I've got that man crazy for me
He's funny that way
( http://www.mp3lyrics.org/b/billie-holiday/hes-funny-that-way/ )
Wednesday, February 03, 2010
自己
「自己」という言葉は、物質的には何を指しているのか。
もっと日常的な言葉で、「自分の体」でもいい。
実は私は、自分の体全体を自分の目で直接見たことなどないのだ。相当に体の柔らかい人でも自分の背中の中心を見ることは困難だし、まして頭頂部などヨガの行者でも見ることはできない。
自分で見ていない物であるにも関わらず、我々は「自分の体」と言っているわけだ。
さらに言えば、自分の内臓を自分の目で直接見ることは困難だし、体細胞の中の核やらミトコンドリアやらは顕微鏡を通して間接的に見ることしかできない。
全体を見たことのない物に名前をつけること自体はごく普通のことではある。地球も太平洋も富士山もそうだし、目の前の机でさえ全体を一度に見ることはできない。
ただ、いまだかつて見たことのない部分だらけである自分の体を「自分の体」と呼ぶことには、目の前の机を「机」と呼ぶこと以上の意味があるのではないか。(「意味」という言葉が最適かは吟味を要す)
少し横道にそれるが。
脳には、自分の全身の視覚情報は届いていない。自分の全細胞からの情報も、恐らく届いていない。生きていくためには、細胞一つ一つの状態についての情報の全てを脳が直接受け取る必要はない。ある範囲の細胞の状態によって変化する、例えば化学物質に関する情報等が脳に入ってくれば、脳は全身のコントロールをすることができる。
実は、私の背中は昨日より5ミリ膨らんでいるかもしれない。その視覚的情報は脳には届かない。しかし、脳は、背中の異常を知らせる情報が何らかのセンサーから入って来なければ、別に5ミリ膨らもうと気にしないのだ。自己に「異常」が起きているとは思わないのだ。
(もちろん、脳について「気にする」とか「思う」とかの述語を用いるのは擬人的にすぎるだろう。代わりに、「特別な反応をする」という類の述語を用いた方が誤解は避けられるかもしれない。)
もっと日常的な言葉で、「自分の体」でもいい。
実は私は、自分の体全体を自分の目で直接見たことなどないのだ。相当に体の柔らかい人でも自分の背中の中心を見ることは困難だし、まして頭頂部などヨガの行者でも見ることはできない。
自分で見ていない物であるにも関わらず、我々は「自分の体」と言っているわけだ。
さらに言えば、自分の内臓を自分の目で直接見ることは困難だし、体細胞の中の核やらミトコンドリアやらは顕微鏡を通して間接的に見ることしかできない。
全体を見たことのない物に名前をつけること自体はごく普通のことではある。地球も太平洋も富士山もそうだし、目の前の机でさえ全体を一度に見ることはできない。
ただ、いまだかつて見たことのない部分だらけである自分の体を「自分の体」と呼ぶことには、目の前の机を「机」と呼ぶこと以上の意味があるのではないか。(「意味」という言葉が最適かは吟味を要す)
少し横道にそれるが。
脳には、自分の全身の視覚情報は届いていない。自分の全細胞からの情報も、恐らく届いていない。生きていくためには、細胞一つ一つの状態についての情報の全てを脳が直接受け取る必要はない。ある範囲の細胞の状態によって変化する、例えば化学物質に関する情報等が脳に入ってくれば、脳は全身のコントロールをすることができる。
実は、私の背中は昨日より5ミリ膨らんでいるかもしれない。その視覚的情報は脳には届かない。しかし、脳は、背中の異常を知らせる情報が何らかのセンサーから入って来なければ、別に5ミリ膨らもうと気にしないのだ。自己に「異常」が起きているとは思わないのだ。
(もちろん、脳について「気にする」とか「思う」とかの述語を用いるのは擬人的にすぎるだろう。代わりに、「特別な反応をする」という類の述語を用いた方が誤解は避けられるかもしれない。)
Monday, January 25, 2010
天授庵(2)
「
- http://k-kabegami.com/tenjyuan/ (Google サイドウィキで表示)
天授庵
「本堂の襖絵は長谷川等伯64才の時の筆による32面。
Tuesday, January 19, 2010
シュタイナー 人智学
「人智学・心智学・霊智学」を読んでいる。
(ちくま学芸文庫) ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巖 (翻訳)
非常に面白い。特に感覚のところ。こういう捉え方もあるのか。
こういう感覚論と対峙させながら現代科学の感覚論を批判的に理解
Monday, January 04, 2010
光
日常言語と科学言語の違いという点では、「光」などは最たるものだろう。
「もっと光を」という時は「もっと明るくしてほしい」ということなのであって、そこには光の粒子とか波動とかにつながるイメージはなかったはずだ。
しかし、それならなぜ「明るい」という言葉とは別に「光」という言葉があるのか。
「光」と言ったときには光源を意識している、ということだろうか。光源があって、それによって明るくなっているこの場所がある。光源からここに到達する何かがある、それを光と呼ぼう、というようなことか。
だが、その「光」は見えていないのだ。少なくとも、光源からこの場所へ移動してくる物としての光など誰も捉えたことはない。
音であれば、音源とこことの中間点を決め、そこに音が到達するのはここに到達するより早いことが確かめられるだろう。しかし、秒速30万kmの光についてはそれは不可能だ。
「もっと光を」という時は「もっと明るくしてほしい」ということなのであって、そこには光の粒子とか波動とかにつながるイメージはなかったはずだ。
しかし、それならなぜ「明るい」という言葉とは別に「光」という言葉があるのか。
「光」と言ったときには光源を意識している、ということだろうか。光源があって、それによって明るくなっているこの場所がある。光源からここに到達する何かがある、それを光と呼ぼう、というようなことか。
だが、その「光」は見えていないのだ。少なくとも、光源からこの場所へ移動してくる物としての光など誰も捉えたことはない。
音であれば、音源とこことの中間点を決め、そこに音が到達するのはここに到達するより早いことが確かめられるだろう。しかし、秒速30万kmの光についてはそれは不可能だ。
Saturday, January 02, 2010
日常言語と科学
日常言語では動物の範疇に入れていたものを科学的に仔細に検討したところ、その生物には動物一般の特性のうち欠けているものがあり、一方で植物一般の特性は備えていた、ということは起こる。
その場合、科学者は、この生物を動物と分類していたのは間違いで、今後は植物に分類する、と言うだろう。
しかし、本来、これは「間違い」なのではない。日常言語が捉える範囲の特性では、それを「動物」と呼ぶことに大方の人は異論がなかったのだ。
ただ、科学的知見が蓄積されてくると、科学の世界では分類を変更しないと色々不便だ、ということなのだ。そういう場合は、大方の同意があれば、科学者の提案にそって、日常言語の方でもそれを動物から植物に分類変更すればいいわけであり、そうなった例は多いだろう。
こういうことが、日常言語が捉える範囲を拡大するきっかけにもなっていく。
脳死という概念が普及し、科学者のみでなく一般の人々が理解するようになったことにより、「死」という日常言語を当てはめるか否か判断するときに見ておく範囲が広がる(瞳孔や脈拍等、身体感覚だけで捉えられるものだけでなく、器械を用いないと分からない脳波もチェックする)というようなのは、典型的な例といえる。
その場合、科学者は、この生物を動物と分類していたのは間違いで、今後は植物に分類する、と言うだろう。
しかし、本来、これは「間違い」なのではない。日常言語が捉える範囲の特性では、それを「動物」と呼ぶことに大方の人は異論がなかったのだ。
ただ、科学的知見が蓄積されてくると、科学の世界では分類を変更しないと色々不便だ、ということなのだ。そういう場合は、大方の同意があれば、科学者の提案にそって、日常言語の方でもそれを動物から植物に分類変更すればいいわけであり、そうなった例は多いだろう。
こういうことが、日常言語が捉える範囲を拡大するきっかけにもなっていく。
脳死という概念が普及し、科学者のみでなく一般の人々が理解するようになったことにより、「死」という日常言語を当てはめるか否か判断するときに見ておく範囲が広がる(瞳孔や脈拍等、身体感覚だけで捉えられるものだけでなく、器械を用いないと分からない脳波もチェックする)というようなのは、典型的な例といえる。
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