Thursday, March 18, 2010

聴覚優位説

シュタイナーの、視覚に対する聴覚優位を唱える説については、そういう面もあるかも知れないと思う点がある。
冬季オリンピックのフィギュアスケート出場直前の選手の中に、ヘッドフォンで音楽を聴いている者が少なくない。気持ちを落ち着かせる、集中させる、意欲を高める、色々の狙いはあるだろうがいずれにしても自分の心をコントロールするツールとして音楽を用いている。
これを視覚で行おうとしてもうまくいかないのだと思う。
自分のことを考えても、音楽で気持ちが高揚したり落ち着いたりすることはよくあるし、そのために聴くことも多い。動画や静止画でもそういう効果はあるのだが、持続しない。その画像を見ることをやめた途端に、一時的に高まった気持ちは変化してしまう。

胎児は、音を聴くことはできるが視覚像を見ることはできない。このことと関係があるような気もする。

Saturday, March 13, 2010

"Habana Del Este" 続き

「色合い」というより、「味付け」と言った方がいいか。
一番近いたとえは、寿司かもしれない。リズムという寿司飯の上に、味の流れを綿密に組み立てたネタが乗っている。ネタがフルートやベースのフレーズだ。
フルートとベースの掛け合いは、寿司だったら白身、赤身、白身、赤身という食べ方?寿司でそれが旨いのかどうか、ちょっと分からないが。

Afro Cuban All Stars "Habana Del Este"

このところ毎日聴いている。聞き込むにつれ、すごさが分かってきた。初めは気楽にちゃかぽこやってるように思えるが、とんでもない。聴く者が陶然とするのは、大変な職人芸があってのことだ。
前半の、まるで日本の歌謡曲のような緩めのメロディーも、これがあるからこその後半の昂揚のように思える。その昂揚が生まれる基底には、比較的単純なリズムの繰り返しがあるわけだが、リズムに付けられた言わば色合いが変わっていくことが重要なのだと思われる。今度はどんな色合いになるんだろうという興味がずっと続くことになる。また、聴く者に適度に緊張を与えるものとして、普通の人の声域よりは少し高めだったり、少し低めだったりする楽器が使われているのだろう。繰り返しが昂揚を生み出すには、感覚を覚醒させるものが必要なのだ。
それにしても、このパーカッションの見事さ!エンディングの粋なこと!

Monday, March 08, 2010

機械と感情(2)

M.ミンスキーに言わせれば、どんなに複雑であろうと、人間もまた機械であるとして扱うことに何ら不合理な点はない、ということになるだろう。人間に機械ではない要素を求めることの方が不合理であると。全ての要素とそれらを組み立てるための全ての規則さえ与えられれば、人間は組み立てられるのであって、そこに神秘的な力を持ち込むべきでないと。

もちろん、機械は初めから必要な能力を全て備えているとは限らず、学習によって獲得される能力があるということを、ミンスキーも否定しないだろう。否定しないどころか、その学習のプロセスこそAIの最大のテーマだろう。

では、感情を持つという能力は、機械が学習によって獲得できるものなのだろうか。
例えば、侮辱されて怒るという感情を持つためには、自分が侮辱されているという状況認識が必要である。そのためには、侮辱に用いられる言葉や、その言葉がまさに侮辱と理解される文脈といったknowledge baseが必要だろう。そこに、侮辱している人の表情などを加えればより認識の精度は高まる。
これなら、もしかすると、機械とAIの組合せでできるのではないか?人間が「今のは侮辱だぞ」ということをそのたびに機械に教えてやり、機械の方はAIを用いてknowledge baseを拡充していく。そして、侮辱されたと判断した時の自分の行動はプログラムしておく。もちろんそのプログラムは、侮辱の程度や状況を勘案するようにしておかないと、些細なからかいに対して拳銃を撃ったり、着飾った客人ばかりが座っている食卓をひっくり返したりしてしまう。

しかし、それでは、十分なknowledge baseと適切なプログラムに基づき、侮辱に対してもっともな怒りを見せるようになった機械は、感情を持っていると言えるのだろうか。

(続く)

Wednesday, March 03, 2010

機械と感情

コインを投入し欲しい商品のボタンを押すと、商品が出てくるのに合わせて「ありがとうございました」と発声する自動販売機がある。
この機械が「ありがとう」という気持ち、購入者に対する感謝の感情を持っていると考える人はまずいないだろう。

では、人が感謝の感情を持っていると、我々はどうやって判断するのか。「ありがとう」のような感謝の言葉が発せられるなど感謝表現が為されているかどうかは、一つの重要な判断根拠になる。また、その言葉が、感謝を示すのに適した状況で発せられているかどうかも、チェックされている。そのようなチェックを自分がしていることを、我々は通常あまり意識してはいないが、感謝表現に適さない状況、例えば悪態をつかれて「ありがとう」と言う人がいたら我々はそれは感謝ではないと判断することを考えれば、実はチェックしている。

この、感謝表現の有無、及び、感謝表現に適した状況かという二つのチェックポイントだけなら、先の自動販売機も「感謝の感情を持っている」と判断され得る。
しかし我々はそう判断しないのはなぜなのか。

感情を持つ主体には、一定の相貌がある、というのが我々の前提なのではないか。
同じ機械であっても、鉄腕アトムであれば、感情を持っているとしてもおかしくないと我々は思う。
(相貌は、単に顔かたちの問題ではなく、ふるまいも含めてのものである。)
動物の中でも哺乳類は感情を持っているように思えるが、魚類になると多くの人は「感情なし」と判断するのではないか(だからおどり食いができる)。
植物は感情を持たないとするのが普通の立場だろう。しかし、水やりを忘れて元気がなくなった植物に「ごめんね、喉が渇いてつらかったろうね」などと声をかける人は少なくない。この場合、その人たちは、植物のふるまいを、感情を持つものの相貌として捉えているのである。

一方で、感情を持っていてもおかしくない相貌を備えたターミネーターは、初めは感情を持たない機械として描かれている。主人に従うのはそうプログラムされているからであって主人に好意を持っているからではない。敵と戦うのもそうプログラムされているからであってその敵を憎んでいるからではない。どんなに見かけは人間そっくりでも、機械はやっぱり機械であって感情はないのだ、という考え方でこの映画は作られている。
ところが、最後にターミネーターは涙を見せるのだ。機械はどのようにして感情を持つに至るのか。この映画の答は「学習」である。人は感情を持っているのだということを少年が何度も教え、ターミネーターはそれを徐々に理解し、最後には自ら感情を持つということになっている。

ここで、真面目に問わなければならない。学習によって感情を持つに至る機械を作ることは可能か。

(続く)

Monday, March 01, 2010

機械は感覚を持つか。

人間が40度の風呂に入って「ちょうどよい温かさだな」と感じることと、温度計をその湯に入れたところ目盛りが40度を指すこととは、まるで違うことだ。温度計は、「ちょうどよい温かさだな」と感じているわけではない。われわれは、そう確信している。

では、その温度計に少し工作し、40度の湯に入れると「ちょうどよい温かさだな」と発声するようにしたらどうか。(この程度のセンサーと発声装置を備えたおもちゃなら今いくらでもあるだろう。)
それでもわれわれは、その機械(器具)が温かさの感覚を持っているとは思わないだろう。たとえその発声装置付き温度計の言うことがわれわれ自身の思いと一致したとしても。

機械には人と同じ感覚は持ち得ない、ということをわれわれはあたかも自明のように思っているということだろうか。
犬やアザラシに似せたロボットの人気のことを考えると、そうとばかりも言えないのではないか。われわれは、それらのロボットが実際の動物と同じ感覚は持っていないと頭では理解しつつ、あたかも同じ感覚を持っているかのような彼らの反応に喜んでいる。これは、ロボットが感覚を持つことを許容していることなのではないか。

さらに、どこからどう見ても人間としか見えないロボットが作られたとして、彼(それ)が風呂に入って「ちょうどよい温かさだな」と言ったとすれば、われわれはもちろん何の違和感も持たないだろう。彼はわれわれと同じような感覚を持っていると思うだろう。
では、その時、そのロボットが自分の胸をパカッと開けて中のメカニズムを見せてくれたらどうか。実は彼はロボットであったと知った時、我々は、彼は感覚を持っているふりをしていたのだと思うだけなのだろうか。

感覚を持つとは、我々と同じ脳や神経の機構を持つことが前提とされることなのだろうか。

しかし、我々自身、風呂に入った時の温かさの感覚とは一体何なのか、実は説明困難なのではないだろうか。
それは、機械がセンサーで温度を測り「何度です」とか「ちょうどよい温かさだな」と発言することと比べて、何が違うのだろうか。機械による測定・反応と比べ、何か別のものがそこにはあると我々は確信しているが、では、それは一体何なのだろうか。
 
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