Tuesday, June 27, 2006

NHKニュース

NHKの朝のニュースにはこれまでも不満を持っていた。世の中が緊迫している時に、どうして視聴者の撮影した暢気な日常にこんなに時間を割くのか、一つ一つのニュースの掘り下げ方が余りに浅薄じゃないか、等々。

今朝のテレビ(5時台、6時台)を見たら、不満どころじゃない。
ニュースをやっていない!

BSも総合もサッカーというのはいくらなんでもひどい。高校野球のときのように、教育テレビをうまく使うとか、方法はあるだろうに。

先日、カナダ出身で今は日本に住むJと話したら、ニュースのトップがサッカーだなんてcrazyだと言っていたが、ニュースがないのを知ったらなんと言うだろう。

Friday, June 23, 2006

横綱、ありがとうございました。

前々回のブログ、頭に血が上ったとはいえ馬鹿なことを書いたものだ。ブラジルが「こどものボール蹴り」だと?!
早起きは三文の得。こういう意識の持ちようでは永遠にブラジルには勝てないということを思い知った。

横綱と平幕、いや横綱と十両ぐらいの差があるんじゃなかろうか。
彼我の実力についてこのような客観的な認識をし、ワールドカップという最高の舞台で胸を借りられるだけで幸せであるという謙虚な思いで戦うべき相手であった。

前半はよく健闘したと思うし、玉田のシュートは今大会日本チーム初の痛快なシーンだった。横綱も、ほう多少はやるな、ぐらいに思ってくれたかも知れない。
でも、その後は、格の違いをまざまざと見せ付けられた。
後半途中からは、練習モードに切り替わったブラジルに対してさえ何も為す術がなく、士気を失ったかに見えたが、あれでも、恐らく精一杯やっていたのだと思う。十両の力士が横綱と対戦して全く相撲を取らせてもらえないような状況だったのだろう。

悔しいという言葉が選手から出たが、おこがましい。横綱に負けた十両がそんなこと言うわけない。サッカーとはどういうものか教えていただきありがとうございました、と言わなくちゃ。

Monday, June 19, 2006

内藤礼/茂木健一郎

茂木健一郎のことは、彼がイギリスにいたころから気になっている。何かやってくれそうな期待をずっと持っている。クオリアを打ち出したのはなかなかのヒットだと思う。ただ、まだホームランとは言えないのではないかと思っている。

音楽にも美術にも文学にも並々ならぬ関心を持つ彼の態度は正しいと思う。そうでなければ本当の脳科学などできるわけないと思う。多くの脳科学者のように、ごく狭い領域を深く掘っても、探り当てられることは極めて限定的だろうと思う。
一方で、ここまで関心領域を広く持ってしまったら、一つの理論をまとめあげるのは大変なことだろうとも思う。

さはさりながら。
今朝の日経文化欄で、茂木が内藤礼を取り上げていたのは嬉しかった。
かつて、佐賀町エキジビットスペースで内藤の作品の中に潜り込み、一人だけであの世界に浸った数分間が、ぼくのアート体験の中でも指折りの貴重な時間だったことを、あらためて思い出した。
茂木のように「ぞっとする」ことはなかったが、特別な感覚だった。手のひらに触れる柔らかな生地だけでなく空間全体から感じるぬくもり。まどろみを誘いそうなその感覚の一方で、か細い糸、小さなオブジェクトがもたらす微かな緊張。閉じられているのに恐れはなく、一人なのに孤独感はない。

こういう体験をも包摂できるような脳科学、いや、恐らくこういう体験の解明を中心に位置付けてこそ全体が構築されるような脳科学、茂木が目指しているのはそういうものなのではないか。

(内藤礼が97年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表になったとき、素晴らしい人選だと思った。その割にあちらでの高い評価は聞こえて来ず、海外の専門家の感性は彼女に追いついていないのかと思ったが、実際は、一回一人限定方式のため作品を見られた人が少なかったという事情が大きかったようだ。巨大展覧会向きではなかったということか。残念ではある。)

サッカー

ワールドカップの日本対クロアチア戦については、恐らく何千というブログが書かれているのだろうな。それらに出てこないような独自の視点などぼくにはあるわけもないが、やっぱり一言言いたい。
スカッとしない!
なぜ、あそこで決められない!
朝、アルゼンチン対セルビアモンテネグロなんかを見ちゃったから、思いが倍加。なんたる華麗さ!軽妙さ!切れの鋭さ!
あの半分でもいい、3分の1でもいいから、なんて期待しちゃいけないんだよな。きっと彼らがやっているのは別のスポーツなんだ。

そもそも、考えてみれば選手も解説陣も、勝つことは容易ではないという意識でゲームに臨んでいたと思う。「最後まで諦めない」なんて言葉は、楽に勝てると思ってたら出てこない。
実際には、互角だった(ちょっとひいき目?)んだから、「クロアチアなんてちょろいと思わず、気を引き締めて行こう!」って考えてたら結果は違ったかも。まあ、半分やけくそで言ってますが。

ここに来て、オーストラリアの3点目がずしんと重い。あれがなければ、ブラジルに1-0でも、決勝Tに残れるかもしれなかったのに。1点なら、何かの間違いで取れるかもしれないんだから。2点はどう転んでも無理だよなあ。

(負け以外考えられない意識になっちゃってる。もし、選手もそうだったら、本当にダメ。ここはお馬鹿になって、ブラジルサッカーなんて子供のボール蹴りじゃん、とか思ってほしい!)

Wednesday, June 14, 2006

心理、生理

サッカーは滅多に見ないがワールドカップは別。ここまで凄いと90分飽きない。

ところで、対オーストラリア戦の日本の崩れ方は、こんなこともあるのかと思うぐらいドラマティック(良し悪しは別に)だった。
川口の素晴らしいセーブで勝利を確信したであろう日本は、わずかに気が緩んだ、そこを突かれて同点になってしまい、一瞬虚脱状態に陥った、そこをまた突かれた。あの数分を描くと、こんな風に心の描写ばかりになる。だから、ドラマ。

一方、そのあとのブラジル対クロアチア戦だが、素人目には、終盤勝利を確信したブラジルが、少し力を抜いたように見えた。しかし、こちらは負けない。

力が抜けたのと、力を抜いたのの差?
日本の場合は川口の美技というきっかけがあって、選手の心理が極端に変化した。対してブラジルは、特にきっかけがあったわけではないから、そういう極端な変化はない。その差?

そもそも、こういうことを心理で説明しようということ自体妥当なのか?

考えてみれば、走り続けて筋肉が疲労し動きが鈍くなるのは生理で、信じがたいことが起こったため呆然として動きが鈍くなるのは心理、というような分け方自体それほど自明なのかどうか。
運動の結果心拍が増すのは生理、スピーチをする前に緊張して心拍が増すのは心理、とか、例は色々あるが。

後者の例で言うと、脳が心拍を増やすような出力を行う過程はたぶん同様なのだ。違うのは入力。一方は血中の酸素濃度とかなんとか酸のようなものを何らかの神経系の働きで感知する。他方は自分が置かれている状況という身体外のことを、単純な神経系ではなく、複雑な脳活動によって、感知というより理解する。

いや、身体外のことについての入力かどうかは重要ではない。気温が高くて汗をかくのは、身体外の状況が入力された結果であっても生理と言われるのだから。

となると、入力を処理する過程の違いで心理と生理は区別されるのだろうか。

日本チームの動きが鈍くなったのには、実はそれ以前の疲労の蓄積という要因も大きく働いているはずだ。それが、一つのきっかけで、急に顕在化した。そのきっかけ以前は、疲労を感知するセンサーからの信号がブロックされていたのかもしれない。
逆に、オーストラリアチームは、追いついた途端に動きが軽快になった。きっかけ以後、疲労を感知するセンサーからの信号がブロックされたのかもしれない。
疲労を感知するのは生理的過程で、それをブロックするのは心理的過程?

ちょっと飛躍だが、結局、生理か心理かは、入力の源が物理的あるいは化学的等のいわゆる科学的な方法で測定できるものか否かの差ではないか。

と書いた途端に別例が思い浮かんでしまった。「あの人のことは生理的に好きになれない」と言うことがあるじゃないか。好き嫌いは心理そのものなのに、生理を持ち出すのは、心理をうまく説明できないからとしか考えられない。
となると、生理で説明できないのが心理で、心理で説明できないのが生理?いやはや。
異性ににこっとされて赤くなる、これは心理?生理?

Sunday, June 11, 2006

場(2)

場には個性がある。
その個性が似ている場もあれば、大きく異なる場もある。

例えば、先日の割烹ではゆとりのなさと感じられたカウンターとテーブルの間隔、それゆえに生じたスタッフの窮屈な動きも、居酒屋なら問題にならない。隣の客と肘が触れるぐらいの狭さが、居酒屋の居心地のよさにつながる。スタッフが「すみませーん、通ります」などと言っているのが店の活気にさえなる。

どちらの場が優れているとか劣っているとかの比較は無意味である。

ただし、経済価値は異なる。たいていの場合、品のよい割烹は、賑やかな居酒屋より高い。
これは、原価の差に起因するのだろう。カウンターとテーブルの間隔をあけるにも、スタッフを増やして女将の顔にいつも微笑を浮かばせるにも、コストがかかる。器、調度、エントランスのデザイン、全て割烹は居酒屋よりコストがかかる。料亭はもっとかかる。
ちゃんとした京懐石を味わうには少なくとも1万5千円は必要だと、ネットのどこかに誰かが書いていたが、そうだろうなという感じはする。(ちなみに、例にとりあげた祇園の割烹は飲み物を加えても1万円しなかった。1万円未満で得られる食事の場の満足度としてはあの辺が限界かもしれない。)

特殊例も考えられなくはない。毎日毎日料亭で食事をするのが仕事のような人が、お金を出せば今日は居酒屋にしてあげると言われれば、料亭並でも払うかも。これは、自由を買ってるのであり、場の値段じゃないか。

場の価値を考える上で欠かせない例が茶の世界だろう。これは、次回。

圧縮(4)

色の場合の問題は、連続的な変化であるため、一つの色と他の色の差異が必ずしも明確ではないということである。
実はこれは、音声にも元来あったはずの問題だ。我々が例えば「こ」という音であると認識する音声には、微妙に異なる無限のヴァリエーションがある。ただ、それらは、他の音声と比較すれば類似度が高く、また例えば「さ」という音と認識される音声群とは音声空間全体の中で離れた位置にある音声群である。

色についても、色全体という無限の要素を持った集合から、有限の、例えば、50個の色群を選べば、これを言語における音声同様に用いることが可能だろう。

どうも話が当初考えていたことから離れてきてしまった。楽曲を一つの色に圧縮するというとき、実は、その楽曲と色との間には、何か共通の特性があり(例えば聴く者、見る者の気持ちを明るくする)、従って、一つの色に圧縮しても、元来の楽曲の特性は、極めて限定的ではあるにしても保持される、といったことを想定していた。例えば、モーツァルトのトルコ行進曲を圧縮すれば明るく澄んだ色、シェーンベルクの浄められた夜は暗く濁りを帯びた色、などと。

言語における音声のように色を用いる場合は、表すべき対象と色との間にこういう関係は不要だ。

少し話を飛ばしてしまうが、「かたじけない」という音声の組み合わせは、元来、かたじけないという思いとは何の関係もない。にもかかわらず、「かたじけない」という言葉が、かたじけないという思いを表しうるのは、言語空間全体が、「思い空間」全体と対応関係を持っているからだ。一つの言葉しかなかったら、言葉で思いを伝えることはできない。「かたじけない」も「申し訳ない」もあり、言語空間におけるそれらの言葉の距離が、「憎い」との距離よりは近い、そういった、言葉同士の関係全体が、思い同士の関係と対応を持つが故に、言葉で思いを伝えることができる。

圧縮というなら、言語空間全体が、思い空間全体の圧縮になっているということか。
同様に、特定の色群を選び、思い空間との対応関係を設定することはできるだろう。色の全体というものは空間的構造を持っている。つまり、個々の色を3次元空間にプロットし、色同士の距離の遠近を述べることも不可能ではない。前回「圧縮(3)」で述べたことは、特定の色群を、思い空間に対応させる上で有利に働くのではないか、という仮説に置き換えるべきだろう。

-------------------------------------------------------------------
こういうことは、言語学なり記号学で初歩的な議論として論じ尽くされているのかもしれない。不勉強をさらけだしてしまった。
「圧縮」というタイトルも適当ではなかったが、別タイトルを考えるのも面倒なので、このままにしておく。

Friday, June 09, 2006

圧縮(3)

一つの楽曲という、変化に富み、かつ、他の楽曲とは明確に区別される特徴を備えたものを、一つの色で表現しようなどというのは乱暴すぎる発想のように思える。

しかし、考えてみれば、我々の言語は、人間の感情のような複雑なものでさえ、数文字の言葉で表現している。
例えば、「かたじけない」という言葉が表している思いは、この思いを抱く人Aと、その思いの対象となっている人Bとの間に、様々なできごとがあって生まれるものであり、この言葉を聞いた我々は、AとBとの間にあったであろうことを多少なりとも想像し得る。
また、この言葉を用いるということ自体から、我々はAについて何がしかのことを知り得る(Aは幼児ではない、Aは暴君ではない、等)。
たった5文字に圧縮された言葉で、そのような情報を提供できるということである。
「かたじけない」という5文字の代わりに、ある特定の色を用いることは、情報の圧縮という点ではそれほど差がない。
人間の感情を色で表現することが可能ならば、楽曲を色で表現することも可能だろう。

色の方が優れている点もある。
例えば、「かたじけない」と「申し訳ない」。この二つの言葉が使われる状況は、異なるものではあるが、「かたじけない」と「憎い」よりは類似性の高い状況だろう。二つの言葉の類似性(使われる状況の類似性と概ね同意だろう)を表現する上で、色は便利だ。色相には、遠近関係があるからだ。
楽曲で言えば、同じ作曲家の曲を表す色は近い色に、また、影響関係の強い作曲家同士の曲も近い色になるような、色の選定ができるはずだ。

Saturday, June 03, 2006

「ウェブ進化論」

遅ればせながら、梅田望夫の「ウェブ進化論」を読み終えた。
フォーサイト誌の連載で梅田氏の物事の見方にはいつも教えられていたが、今回まとまった形で読み、ネット社会の将来についてかつてなく視界が開けたような気がした。
オープンソースやロングテールについての理解も深まったが、なんといっても、グーグルがやっている「あちら側」のことがどういうことなのか、それによって世の中がどれほど変わるのか、納得できたことが最大の収穫だ。
一方で、グーグルの目指すことが本当に可能なのか、別の視点から考えさせてもくれた。
それを可能にしたのが、梅田氏が引いた将棋の羽生名人の言葉、「高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きている」。梅田氏はグーグルの価値を極めて高く評価しているが(おそらく日本で最も高く)、一方で、無批判ではなく、冷静に技術の全体像を見ている。

現在のコンピュータで高速化できる部分の先で、名人クラスの脳は働いている。その脳の働き方については今もって全く定式化できていないから、名人に到れぬ脳は渋滞してしまうということだろう。

グーグルが創造した世界最大のコンピュータは、今現在、世界中の情報を対象としてプログラムに従った自動処理をしている。それによる成果は途方もなく大きいが、それでもなお、その先に限界があるのではないか。梅田氏が、グーグルと羽生名人の両方をとりあげたのは、そういう予感を梅田氏自身否定しきれないからだろう。

かつて、コンピュータによる自動翻訳が発達すれば翻訳家や通訳は不要になるのではないかと考えた技術者が大勢いた。その後自動翻訳技術は大きく進歩したが、まだ、翻訳家も通訳も仕事を失っていない。私は、今後も自動翻訳が完全に人に置き換わることはないと思っている。レベルの高い翻訳は、双方の言語が根ざす人々の生活、文化を深く知らないとできない。生活していないコンピュータに、これはできないはずだ。
名人とコンピュータの将棋思考の差は、実は生活経験の有無だといっては短絡だが、何かそういう、人間と機械の根本的な差異に根ざすものだとは思う。
グーグルの限界も、そこから出てくるような気がする。

Thursday, June 01, 2006

場(1)

「場の雰囲気」、「場違い」、「場数を踏む」などというときの「場」という概念は、非常に重要な概念だと思う。
場は空間と密接に関連するが、物質を取り去っても存在すると観念される抽象的な空間ではない。場は事象と一体である。事象は当然ながら時間の中で生起するものである。つまり、場は、空間的なものと時間的なもの両方の要素を含んでいる。
我々は、空間、時間という概念を持っているがゆえに、場という概念を空間という概念、時間といういう概念を用いて説明しようと考えてしまうが、本来、場は、空間概念、時間概念に還元すべきものではないように思える。
では、空間概念、時間概念を用いずに、どう場を説明するか。

哲学的に考えるとなかなかの難問であるが、我々は(少なくとも日本語を用いる者は)、日常的に場という言葉を用い、理解しあっているのだから、共通理解の基盤はあるに違いない。

こういう問題は、実例に即して考えた方がいいかもしれない。
5月初旬に祇園のあるモダンな割烹で食事をしたのだが、それを例にとってみる。

この割烹、祇園新橋地区の町屋が並んだ表通りから狭い路地を抜けて店に至るのだが、この路地からして既に壁の質感、照明の当て方等に配慮されたものだった。建物や室内のデザイン、部屋から見える坪庭等は、伝統と現代性が調和し、十分に目を楽しませてくれた。料理は一皿一皿しみじみとおいしく、器や盛り付けも見事だった。
しかし、この割烹での食事、満点をつけるにはまだ若干不足を感じた。一つには、カウンター席とテーブル席の間隔がやや狭かったこと。もう一つは、女将の表情にゆとりがなかったこと。

一つ目の問題は、空間に関連するものではあるが、人の動きのない状態、例えば誰もいないカウンターとテーブルに料理を置いた状態で見れば、さほど意識されなかったように思う。意識に上ったのは、3人分のお造りが盛られた大皿をテーブル席のわれわれの方に運ぼうとするスタッフが、カウンター席の後ろを通り抜けるときに体を捻ったときだった。ゆったりした気分でその食事の花とも言える一皿を楽しもうという場に、窮屈さを示す動きは合わないのだ。

二つ目の問題の原因は、客数の割に厨房外のサービススタッフが少なく、結果として女将の負担が過重だったということだろう。時間がない、時間に追われている、という表現もこの状況には使えるから、時間に関連する問題と言えなくもない。しかし、実はこちらも一つ目と同様、ゆったりした気分で食事を楽しむ場にふさわしくない、と捉えるべき問題なのだと思う。

一つ目を空間におけるゆとりのなさ、二つ目を時間におけるゆとりのなさ、と捉えることもできるが、空間、時間に分解せず、どちらも場におけるゆとりのなさなのだと捉える見方が重要なのだ。
仮説だが、脳は、この二つを共通のプロセスで処理しているのではないか。

(続く:続けられるかどうか自信はないが、一応)
 
Wikipedia Affiliate Button