Monday, January 25, 2010

天授庵(2)

また本堂の襖絵は非公開ながら重要文化財に指定されている長谷川等伯の方丈障壁画32面を所蔵しています。」

内容:


- http://k-kabegami.com/tenjyuan/Google サイドウィキで表示

天授庵

「本堂の襖絵は長谷川等伯64才の時の筆による32面。全てが重要文化財ということですが非公開です。」となっているが、公開されることもあるらしい。見たい!

内容: http://kyoto-albumwalking2.cocolog-nifty.com/blog/6_1/index.htmlGoogle サイドウィキで表示

Tuesday, January 19, 2010

シュタイナー 人智学

「人智学・心智学・霊智学」を読んでいる。
(ちくま学芸文庫) ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巖 (翻訳)

非常に面白い。特に感覚のところ。こういう捉え方もあるのか。聴覚の方が視覚よりも事物の根底に深く達することができる、熱覚はあるが触覚はない、言語感覚も感覚である、等々。
こういう感覚論と対峙させながら現代科学の感覚論を批判的に理解していくことが必要なのかもしれない。

内容: http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E6%99%BA%E5%AD%A6%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%99%BA%E5%AD%A6%E3%83%BB%E9%9C%8A%E6%99%BA%E5%AD%A6-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4480091041/ref=pd_bxgy_b_text_bGoogle サイドウィキで表示

Monday, January 04, 2010

日常言語と科学言語の違いという点では、「光」などは最たるものだろう。
「もっと光を」という時は「もっと明るくしてほしい」ということなのであって、そこには光の粒子とか波動とかにつながるイメージはなかったはずだ。

しかし、それならなぜ「明るい」という言葉とは別に「光」という言葉があるのか。
「光」と言ったときには光源を意識している、ということだろうか。光源があって、それによって明るくなっているこの場所がある。光源からここに到達する何かがある、それを光と呼ぼう、というようなことか。
だが、その「光」は見えていないのだ。少なくとも、光源からこの場所へ移動してくる物としての光など誰も捉えたことはない。

音であれば、音源とこことの中間点を決め、そこに音が到達するのはここに到達するより早いことが確かめられるだろう。しかし、秒速30万kmの光についてはそれは不可能だ。

Saturday, January 02, 2010

日常言語と科学

日常言語では動物の範疇に入れていたものを科学的に仔細に検討したところ、その生物には動物一般の特性のうち欠けているものがあり、一方で植物一般の特性は備えていた、ということは起こる。
その場合、科学者は、この生物を動物と分類していたのは間違いで、今後は植物に分類する、と言うだろう。

しかし、本来、これは「間違い」なのではない。日常言語が捉える範囲の特性では、それを「動物」と呼ぶことに大方の人は異論がなかったのだ。
ただ、科学的知見が蓄積されてくると、科学の世界では分類を変更しないと色々不便だ、ということなのだ。そういう場合は、大方の同意があれば、科学者の提案にそって、日常言語の方でもそれを動物から植物に分類変更すればいいわけであり、そうなった例は多いだろう。
こういうことが、日常言語が捉える範囲を拡大するきっかけにもなっていく。
脳死という概念が普及し、科学者のみでなく一般の人々が理解するようになったことにより、「死」という日常言語を当てはめるか否か判断するときに見ておく範囲が広がる(瞳孔や脈拍等、身体感覚だけで捉えられるものだけでなく、器械を用いないと分からない脳波もチェックする)というようなのは、典型的な例といえる。
 
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