勘三郎の俊寛を見た。
最後の場面は、表現の巧みさといったこととは次元の違う、何か大変な所まで行っていた。
憎しみも悲嘆も絶望も、すーっと消えた、いやそうではなく、ふーっと昇華した、とでも表現するしかない境地。
そこに至る長い苦難の時間や直前の激しいやりとりを考えれば、およそ人間である限りそのような境地に達することはあり得ないようなものなのだが、そんな思いが浮かぶことすらなかった。ふーっと達した勘三郎/俊寛を、こちらはただ、ああ、と見つめるだけだった。
「何かが下りてきたよう」と言っていた人がいるが、そうなのかもしれない。追善公演で父親の当たり役に立ち向かう気迫が、何かを引き寄せたか。
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