「自己」という言葉は、物質的には何を指しているのか。
もっと日常的な言葉で、「自分の体」でもいい。
実は私は、自分の体全体を自分の目で直接見たことなどないのだ。相当に体の柔らかい人でも自分の背中の中心を見ることは困難だし、まして頭頂部などヨガの行者でも見ることはできない。
自分で見ていない物であるにも関わらず、我々は「自分の体」と言っているわけだ。
さらに言えば、自分の内臓を自分の目で直接見ることは困難だし、体細胞の中の核やらミトコンドリアやらは顕微鏡を通して間接的に見ることしかできない。
全体を見たことのない物に名前をつけること自体はごく普通のことではある。地球も太平洋も富士山もそうだし、目の前の机でさえ全体を一度に見ることはできない。
ただ、いまだかつて見たことのない部分だらけである自分の体を「自分の体」と呼ぶことには、目の前の机を「机」と呼ぶこと以上の意味があるのではないか。(「意味」という言葉が最適かは吟味を要す)
少し横道にそれるが。
脳には、自分の全身の視覚情報は届いていない。自分の全細胞からの情報も、恐らく届いていない。生きていくためには、細胞一つ一つの状態についての情報の全てを脳が直接受け取る必要はない。ある範囲の細胞の状態によって変化する、例えば化学物質に関する情報等が脳に入ってくれば、脳は全身のコントロールをすることができる。
実は、私の背中は昨日より5ミリ膨らんでいるかもしれない。その視覚的情報は脳には届かない。しかし、脳は、背中の異常を知らせる情報が何らかのセンサーから入って来なければ、別に5ミリ膨らもうと気にしないのだ。自己に「異常」が起きているとは思わないのだ。
(もちろん、脳について「気にする」とか「思う」とかの述語を用いるのは擬人的にすぎるだろう。代わりに、「特別な反応をする」という類の述語を用いた方が誤解は避けられるかもしれない。)
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