国立新美術館にフェルメールを見に行った。
展覧会自体は、「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」という名のとおり、フェルメールは当然ながら一点のみで、その他は全て同時代の別の画家のもの。早くフェルメールを見たい気持ちを抑えて、第一室から見ていく。40cm×30cm程度の絵が多い。なかなかに見事。女性の表情が生きている。テーブルクロスの質感なども実によく描かれている。この時代の空気が感じられるような佳品多数。
何室目かに多くの人が立ち止まっていて、いよいよかと思ったら、解説のための映像等を見せる部屋だった。これが大変優れた解説。青色の原料となる高価な石が印象的だった。
そして、次の部屋に「牛乳を注ぐ女」。
全然違うのだった、そこまでに見た他の画家たちの作品とは。
存在感、リアリティ、ありきたりの言葉しか出てこないが、質の違う存在感、リアリティなのだ。
女性の表情ということなら、実在の一人の女性の生き生きとした表情をとらえ、「ああ、これはどこの誰だ、彼女のこの笑顔がいいんだ」と知り合いたちが思うに違いないリアリティを持った絵が他に何枚もあった。
台所空間の表現でも、現実の台所の様々なにおいや、器の当たる音なども感じられるような絵を、他の作家たちはたくさん描いていた。
フェルメールのリアリティは、そういう類とは異なるのだ。
普遍性。永遠性。
26歳にして、フェルメールは、個々の物や人のリアリティではなく、目の前の事物を通して普遍的な事物の存在感を表現することに成功した、そう思われた。
現実の何某嬢の姿を借りて、「牛乳を注ぐ女」という普遍的な存在を描く。
ポットから流れる目の前の牛乳の姿を借りて、「流れる牛乳」という普遍的な物ないし現象を描く。だから、この牛乳は、永遠に流れ続けているかのようなのだ。
1658年何月何日かのある瞬間をキャンバスに固定したのではなく、その時流れていた時間を現在にいたるまでずっと流れさせているのだ。
これまで腑に落ちることのなかったプラトンのイデアとは、実はこういうことだったのかと思った。
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