Thursday, June 01, 2006

場(1)

「場の雰囲気」、「場違い」、「場数を踏む」などというときの「場」という概念は、非常に重要な概念だと思う。
場は空間と密接に関連するが、物質を取り去っても存在すると観念される抽象的な空間ではない。場は事象と一体である。事象は当然ながら時間の中で生起するものである。つまり、場は、空間的なものと時間的なもの両方の要素を含んでいる。
我々は、空間、時間という概念を持っているがゆえに、場という概念を空間という概念、時間といういう概念を用いて説明しようと考えてしまうが、本来、場は、空間概念、時間概念に還元すべきものではないように思える。
では、空間概念、時間概念を用いずに、どう場を説明するか。

哲学的に考えるとなかなかの難問であるが、我々は(少なくとも日本語を用いる者は)、日常的に場という言葉を用い、理解しあっているのだから、共通理解の基盤はあるに違いない。

こういう問題は、実例に即して考えた方がいいかもしれない。
5月初旬に祇園のあるモダンな割烹で食事をしたのだが、それを例にとってみる。

この割烹、祇園新橋地区の町屋が並んだ表通りから狭い路地を抜けて店に至るのだが、この路地からして既に壁の質感、照明の当て方等に配慮されたものだった。建物や室内のデザイン、部屋から見える坪庭等は、伝統と現代性が調和し、十分に目を楽しませてくれた。料理は一皿一皿しみじみとおいしく、器や盛り付けも見事だった。
しかし、この割烹での食事、満点をつけるにはまだ若干不足を感じた。一つには、カウンター席とテーブル席の間隔がやや狭かったこと。もう一つは、女将の表情にゆとりがなかったこと。

一つ目の問題は、空間に関連するものではあるが、人の動きのない状態、例えば誰もいないカウンターとテーブルに料理を置いた状態で見れば、さほど意識されなかったように思う。意識に上ったのは、3人分のお造りが盛られた大皿をテーブル席のわれわれの方に運ぼうとするスタッフが、カウンター席の後ろを通り抜けるときに体を捻ったときだった。ゆったりした気分でその食事の花とも言える一皿を楽しもうという場に、窮屈さを示す動きは合わないのだ。

二つ目の問題の原因は、客数の割に厨房外のサービススタッフが少なく、結果として女将の負担が過重だったということだろう。時間がない、時間に追われている、という表現もこの状況には使えるから、時間に関連する問題と言えなくもない。しかし、実はこちらも一つ目と同様、ゆったりした気分で食事を楽しむ場にふさわしくない、と捉えるべき問題なのだと思う。

一つ目を空間におけるゆとりのなさ、二つ目を時間におけるゆとりのなさ、と捉えることもできるが、空間、時間に分解せず、どちらも場におけるゆとりのなさなのだと捉える見方が重要なのだ。
仮説だが、脳は、この二つを共通のプロセスで処理しているのではないか。

(続く:続けられるかどうか自信はないが、一応)

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