言語が世界を把握する上で重要な機能は、言語が対象を指示・指定することである。
しかし、この対象指示(指定)機能には大きな限界もある。例えば我々の身体部分を指す言葉を考えても、肩とはどこまでを指すのか、頬と顎の境はどこなのかなどということは定まっていない。同じように、今日は暑い、暖かいというとき、その境がどこにあるのかは決まっていない。
この限界は、言語の発生過程を考えれば、当然ともいえる。言語は、言語だけの世界で意味を持つものではない。我々の先祖が生活の場面で色々と音声を発する中で、ある場面で特有の音声を発すればそれまでより便利なことがあることに気づき、その特有の音声を発する習慣がグループの中で定着した、それが言語の起源であろう。言語は生きていく上でいくばくかの便益をもたらすものとして徐々に発見され育てられたものであり、初めから対象を正確に描写することなどを目的として生み出されたものではない。
生きていく上では、言語の対象指示(指定)機能に限界があることは、さほどの問題とはならない。
我々の祖先が家族で獲物の肉を食べているとする。父親が子供に「お前には肩のところをやる」と言ったとして、「肩」というのがどこまでを指すのか、境界線を引く必要はない。ただし、子供が腰の肉をとろうとしたら、「そこは肩じゃないよ、腰だ」と教えてやる必要があるだろう。
そもそも、言葉が、このような「部分」を指すようになったのは、発生的には後なのであろう。それに先だって、個体を指す言葉があっただろう。例えば、「ライオン!」的な発声である。さらにそれに先だって、「ウオー」だか「ギャー」だかは分からないが、警告の発声があっただろう。その声を聞いてグループの成員が逃げ出せば、この発声は役目を果たしたことになる。しかし、ライオンとウサギを発声上区別できた方が、生きていく上では便利である。「ライオン!」なら逃げるが「ウサギ!」なら追いかけるわけである。
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