前回の「親と子」で、[要は、親が子のためにできる最大のことは「自ら善く生きること」ということになる]と書いた。
では、「善く生きる」とはどういうことか、という問いが当然生じる。
結果で評価されるなら、まだ基準を示しやすい。所得とか、スポーツの記録とか、メディアに取り上げられた回数とか。
しかし、生きる姿勢の善し悪しを何によって評価、判断するのか。
倫理や道徳の意義はここにあるのだろう。
万人が認める倫理、道徳があるのか、といった議論はここではしないが、個人と集団という点で言えることがある。
個人にとって「善い」とされる生き方が結果による評価とは別の価値観に基づく場合でも、集団に属する個人が皆そのような生き方をすることはその集団に好ましい結果をもたらすことが多いだろう、ということだ。
例えば、正直であること。
個人にとっては正直であることが常に利得を増すとは限らない(罪悪感を持たずにすむというような主観的なことは別にして)。殺人の認否が自分の生死を分けることもある。しかし、嘘つきの構成員ばかりでは集団は存続できないから、集団は、「正直であること」を個人の生き方として高く評価するだろう。
例えば、他人のために犠牲を厭わないこと。
極端な例だが、電車のホームから転落した人を助けようとして命を落とした韓国人留学生がいた。利己主義的観点からは、命まで犠牲にしなくてもという見方もあるだろうが、賞賛の声が多かった。利他的行為は集団全体にとって望ましい結果をもたらすことが多いことと、関係が深いだろう。
国、民族レベルまでいかず、数代にわたる家系というような集団であっても、このことは言えそうだ。例えば、利得や賞賛を求めずただ勤勉であれ、というような家訓を守る家系があったとすると、数代の中には結果として大きな成功を収める者も現れる確率が高いと考えられる。
以上から、個人にとっての善い生き方の起源は全て集団にある、とまで総括するつもりはない。例えば、神に対する敬虔等、宗教的な善に関しては、起源を異にするものがあるようにも思われる。
しかし、善が、個と集団の関係と密接に関連する概念であることは間違いない。
(今さら言うまでもない当たり前のことを書いただけのような気がしてきたが、前回のままで終わらせてしまうのは何となく気持ちが落ち着かないので)
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